Summer Lover
籍だけを入れて式を挙げなかった私たちのために、仲間が開いてくれたサプライズパーティー。プライベートビーチを持つ小さなホテルを貸し切って、なんて豪華なことをいっても、みんなが揃えばただの飲み会になるわけで。夜通しの喧騒のあと、各々の部屋に戻った頃には、太陽が水平線からすっかり顔を出していた。
アルコールでぼんやりとした意識のまま、何気に部屋の窓から外を眺めると、砂浜に座っている人影がひとつ。
「ここにいたの?」
ビーチに出た私は、海を眺めている啓司の後ろから声をかけた。
啓司は振り返らずに小さく返事をしたあと、立ち上がって服についた砂を払う。
「みんなは?」
「あれだけ飲めば……ねえ」
私が啓司の問いかけに苦笑すると、彼はただ片方の口角を上げてそれに答えた。
「いいパーティーだったな」
水平線を見つめたままの啓司。
「うん。こんなにお祝いしてくれて、みんな、自分のことのように喜んでくれて」
「ネスさんなんてずっと泣いてたよね?」
「ああ、あいつはバカだから。泣きすぎ」
啓司がヘラヘラと笑う。あなたはネスさんが好きすぎる。
「まあ、俺たちのこと全部知ってて、一番心配してたの、あいつだからな」
「私たちがケンカする度にオロオロして、間に入ってくれたりしてね」
啓司は、あの頃を思い出したように歯を出してニタッと笑った。
「お前、気が強すぎなんだよ」
「啓司が他の女と遊ぶからじゃん」
「はは、確かに」
「……認めた。珍しい」
啓司は「何だよ?」といった風に片方の眉を上げてこちらを見た。まるで、誘惑の白き悪魔のように。
「……いえ、何でもありません……」
私がいつものように怖じ気づいた振りをしてそう言うと、今度は「よろしい」といった風に首を縦に振り、私の頭をポンポンと軽く叩いた。
ああ、私、やっぱりこの手が好きだ。このでかい図体!?に似合わない子どものような手が。見なくても分かる。分厚い掌と短めの指に平たい爪。
「……お前をこの海でぶん投げたこともあるなぁ」
右手で顎をさすりながら想い出話を始めた啓司。
「ほんと、あれはひどかった! 髪も顔もぐちゃぐちゃだし、着替えも持ってなかったし! 」
「ふははっ! お前の顔、ほんとに酷かったわぁ。この世のものとは思えなかったもん。まぁそのあと、ボコボコに殴られたけどな」
「だって、啓司が悪いんじゃん!」
「でも、あのときのお前、かわいかったんだよなぁ」
啓司が横目で私を見ながらニタニタと笑っている。きっとその後のことを思い出しているのだろう。
「……おっさん、ヘラヘラしすぎ」
何だか無性に恥ずかしくなって、私は悪態をついた。
――波が真っ白な貝殻を残していく。あの夏のように――
今でも鮮明に覚えている。びしょ濡れになった私たちは、無性に可笑しくなって、ケタケタと笑い合った。そして、そのまま抱き合ってキスしたこと。
この海で迎えた啓司との初めての夏。啓司が白いシャツを脱いだら鍛えられた筋肉たちで象られた美しい裸が現れ、私は改めてその小麦色の魔法にかかった。
夜のビーチで、そのまま朝までホテルの部屋で、何度も何度もお互いを求めあった。二人の未来はこれからも永遠に続いていくと感じられた、あの大切な夏。
ふと啓司を見ると、あのときと変わらず、ヘーゼルの瞳がこちらに向けられていた。また彼の片方の口角が上がる。啓司も同じ事を思い出してくれているだろうか。
「……楽しかったよな」
そしてまたニターっと少年のように笑った啓司は、そのまま海に向かって歩き始めた。
「ははっ、まだ冷めてぇ!」
笑いながらパシャパシャと水面を蹴り上げる姿は、昔からよく見た光景。無邪気なその仕草は啓司らしくて、つい笑みが溢れる。
「なあ?」
ふと、足の動きを止めた啓司。
「ん?」
「……ちゃんと言ってなかったわ」
「何を?」
少しの沈黙。真面目なことを言おうとするときの彼の癖。
「……結婚おめでとう。アキラに幸せにしてもらえよ」
太陽に照らされる啓司の影。俯く彼の横顔は逆光になっていて、その表情は読み取れない。
「……うん……ありがとう」
あの夏、確かに私の恋人だった啓司。彼が私を捨てたのか、私が彼を捨てたのか。
End
BlueなSky
まだ柔らかさの残る青の空、ようやく暖かくなってきた芝生の上、さわさわとそよぐ心地よい風、無邪気に遊ぶ子どもたちの声、向こうの方でバーベキューを楽しむ大人たち。
「ヤバッ! ねえちゃんのおにぎり、うめっ!」
「もう、おおげさだよ。ただのおにぎりだって」
鮭のおにぎりを口一杯に頬張る将ちゃんを見て、つい吹き出してしまう。
昨日、急に将ちゃんからLINEが入った。
【明日、そっちに帰るからねえちゃんと公園行きたい! お弁当たくさん作ってー😃✌】
これが、30も過ぎた立派な男――しかも見た目は厳つくて泣く子も黙る目力を持ったいかにもパリピな男性――の書くメッセージだろうか。
そんなことを思いつつ、すぐに買い出しに行き、朝早く起きて鼻歌とともにこの大量のお弁当を作った私も私だけど。
それもほんの少し、ホントにほんの少し、将ちゃんよりも年上の……
そして今、将ちゃんはあっという間におにぎりを二つお腹に入れ、今度はザンギを一気に口に入れてもごもごしてる。
「これもうっめっ! やっぱねえちゃんのザンギ最高!」
いつ見ても食べる量とスピードは圧巻だ。前に『将ちゃんは掃除機のようにご飯を食べるね』と呆れて言うと、将ちゃんは『それヤバい、おもしろっ』と笑った事がある。
「もう、食べるかしゃべるかどっちかにしたら?」
決してお行儀の良いとはいえない将ちゃんの食べ方が、私は大好きだ。
「だって、ねえちゃんの作るもの何でもホントにうまいんだもん!」
将ちゃんは、口の中が空にならないうちに次のザンギをまた放り込んだ。
「やっぱ、ねえちゃんの飯食うと元気出るわー。毎日食べたい!」
そんなふにゃふにゃな笑顔で、出来もしない事を言わないでほしい。つい、笑っていた口元が歪んでしまうから。
「ん? ねえちゃん、どうした?」
鈍感なのか、敏感なのか……
「もう、将ちゃんったら。毎日飛行機で帰ってくるわけにはいかないでしょ?」
私は努めて明るく返すと、将ちゃんは肩を落とし、
「そっか、ごめん」
と、目力もなく眉根も下げて明らかにしょげた顔。
「ほら、将ちゃん、ご飯つぶがついてる」
私は笑ってごまかした。すると将ちゃんは、
「え、どこ?」
と言いながら顎を私の方に差し出すから、唇の下の髭に引っ掛かっているご飯つぶを取ってあげると、将ちゃんはまた無邪気なニコニコ笑顔に戻った。
と思ったら、今度はポテトサラダがまた将ちゃんの口にどんどんと吸い込まれていく。
ここまではいつもの光景。少し物足りないけど、いつもの幸せなひととき。
「ごちそうさま!」
最後だけはきちんと両手を合わせた将ちゃん。多目にと思って作ったのに、お弁当箱は全て空っぽ。どこにあれだけの量のご飯が入るのだろう……。まあ、すぐにトレーニングで消化されてしまうのだろうけど。
「はぁ、満足ー!! 眠てーー!!」
言い終わらないうちに、将ちゃんがごろんと寝転がり、あっという間に将ちゃんの頭が私の膝の上に。
胸の上で両手を組んで指でリズムを取りながら鼻歌を歌っている将ちゃんがあまりに近過ぎて眩しくて、つい視線を反らして右手で顔を隠した。
「……ねえ、そんなに嫌だった?」
将ちゃんが心配そうにそう尋ね、私の手首をつかんで顔から外そうとする。そんなことを言われると、首を横に振るしかなくて。
「ほんと? じゃ、照れてんの? ……顔、真っ赤だよ?」
分かってるなら、そんな追い打ちをかけないで欲しい。やっぱり首を横に振るしかなくて。
「ヤバい……」
口を手で覆う将ちゃん。
「……ねえちゃんがかわいい」
……だから、本当にそういうのはやめてほしい。
「ねえちゃんをからかわないでよ」
顔が熱くてしょうがなくて、手のひらでパタパタと顔を仰ぐと、将ちゃんは目尻に皺を寄せてニカーッと顔を崩した。そして、また始まる将ちゃんの鼻歌。
「ねえちゃん、空、見て」
将ちゃんがそう言って天を指差すから、つられて私も上を向いた。
♪ Look up Blue Blue なSky, Sky~♪
将ちゃんが口ずさみはじめたメロディ。空の青を隠す白い綿あめは一つもない。元気よい青葉から零れる陽の光。
♪いつだって You are beautiful ~♪
綺麗な歌声。ただ歌うのが好きで、それだけを貫いて歌い続けてきた将ちゃんの声は、混じりっ気が何もなく純粋で透明で、立場とか年齢とか距離とかで縛られている私の心を全てほぐして、優しく包み込んでくれる。
♪今を、そして君を、誰より愛せるさ~♪
――自分の意志とは関係なく流れていく涙――
それに気付いた将ちゃんが、慌てて身体を起こした。
「わっ、ねえちゃん! 何で泣くの? 俺、悪いことした? 何か嫌な事、思い出させた? なに、なに?」
将ちゃんが私の顔を覗き込みながら、キョロキョロしたり、ジーパンのポケットに手を突っ込んで何かを探したり、絵にかいたようにあたふたしている。将ちゃんがハンカチやティッシュを持ち歩くはずなんてないでしょ、もう。
「ねえちゃん、泣かないで。ほら」
結局、自分のTシャツの裾をまくり、私の濡れた頬を拭こうとする将ちゃんらしい優しさに、私は泣きながらも自然に頬が緩み、小さく
「ありがとう」
と呟いた。
私の顔を見た将ちゃんは安心したような笑顔を見せ、両手を宙に浮かせたが――多分私を抱き締めてくれようとしたのだろう――小さくため息をつきながらそれを一旦下ろし、今度は私の肩にのせた。
「わーっ、やっぱできねーや!」
急に大きな声をだすから、こっちがビクッとなる。
「えっ、えっ? 何が?」
「うーんっ、あのね……啓司さんがさ、好きな女なら愛しているって囁いてキスの一つでもしろよって言うんだけどさ。俺、哲也さんみたいにロマンチックな台詞なんて思いつかないし、恥ずかしいし、ぜってー無理だわ」
将ちゃんは、そう言っている間も照れ笑いを浮かべながらずっとこめかみをかいている。
……私はもう吹き出すしかなくて。
「ふふっ。ふふふっ」
「え、なんで笑うの?」
急に声に出して笑う私を見て、将ちゃんの頭にハテナが浮かんでいる。
「だって、将ちゃん、さっきまであんなにロマンチックな歌を歌ってたじゃん」
「あっ……」
さっきまで歌っていた自分を思い浮かべる将ちゃん。
「……だって歌は別だから」
はにかむ笑顔はまるで十代の無垢な少年。
「ふふふっ」
180cmの筋骨粒々な可愛らしい少年に、私はまた笑みを溢した。
「ま、ねえちゃんが笑ってくれるならいっか!」
将ちゃんがまた寝転び、私の膝はまた枕がわり。
♪そう、ただ笑ってくれるだけで、Yeah 満たされてく♪
将ちゃんがまた口ずさむメロディ。 微笑み合う私たち。
歌うことでしか素直な愛をくれないキミに、今度は私からキスをあげよう。
End
頭痛が痛い
おでこに冷たいものを感じて目が覚めた。身体が熱くて息が苦しい。ここはどこだ? ああ、マンションで寝ているのか……
「ごめん、起こした? 冷た過ぎる?」
昔から聞き慣れた、女性にしては低めの声。冷却シートが苦手な俺のために、おでこにあてがわれたのは濡れタオル。
思い出した。金曜に珍しく風邪を引いた俺は、高熱で朦朧としながらも何とか仕事を終え、帰りの車の中でこいつを呼んだんだった。
「……ん、気持ちいい」
「ふふっ、何、その声。ガラガラッ」
病人に向かって笑うなんていい根性だ。
「うるさい。バカ。ゴホッ」
悪態を付いてみるが、確かに喉が痛くてカスカスの声しか出ない。
「ほら、丸一日は寝てたんだから、無理にしゃべらない方がいいよ。それに、彼女でもないのにわざわざ看病に来ている優しい友人に向かって、バカとは何よ、バカとは」
こいつはいつもそうだ。こうやって、口答えしながらも優しく微笑んで、熱くなった俺の首にその冷たい手を優しく添え、熱を奪ってくれる。
「気持ちいい?」
「…ん」
「何か食べられそう?」
「……リンゴ、すって……」
俺もいつもそうだ。こいつの前でだけ弱い俺を見せられる。
「はいはい。食べたいだろうと思って買っておきましたよ、け、い、たんっ♪」
『けいたん』にわざとハートマークをつけて呼んだこいつは、嬉しそうにキッチンに向かった。
頭はまだガンガンするし喉も痛いしで、『お前はオカンか』という言葉は一旦飲み込んだ。それに、俺が風邪だと知って、お粥とかじゃなくリンゴを買ってきてくれるのはこいつぐらいだ。
「ほら、起きられる?」
キッチンから戻ってきたこいつの手には、すったリンゴを入れたボウルとスプーンを載せたトレイ。
「……ん。ありがと」
「どうぞ、け、い、たん♪」
起き上がった俺の前にトレーを置いたこいつ。いちいち嬉しそうだな。そう思うと、スプーンを俺に差し出したこいつをからかいたくなった。
「は? 食べさせてくれるんじゃないの? ほら」
スプーンを受け取ろうとせず、こいつに向かって口をアーンと開けると、悪態をついていた彼女の顔が急に赤くなる。
「え? 何やってるのよ、37才にもなって」
「37は余計。俺、病人な。ゴホッ。病気に年齢関係ないし。ゴホッ。ほら、アーン」
「な、何よ。わざと咳き込んじゃって」
お、なかなか反応が面白い。
「ああ、喉乾いた。ゴホッ。早く食べて寝たい。ゴホッ」
「もう、分かったわよ。ほら」
観念したのか、顔が赤いままぶっきらぼうに俺の口にリンゴを入れるこいつがかわいく思えたり。
はむっ。
「おいしい?」
はむっ。コクリと頷く。
「そう、よかった」
はむっ。
「大体、何でこういう時は私を呼ぶのよ? 看病なら喜んでやってくれる女の子がいくらでもいるでしょうに」
はむっ。
「いないいない。いたらお前なんか呼ばないし」
「お前なんか、とは何よ。ひどいな、それ。モデルの彼女は?」
笑いながら聞く彼女。
はむっ。
「は、あいつが看病なんかするタマか。それにあのきっつい香水の匂いで、余計に頭痛が痛くなる」
こいつには触れてほしくない彼女のことを持ち出され、ムッとして答えると、意外にもきょとんとした顔が返ってきた。ん? なんだ?
「あははっ」
急に爆笑する彼女。
「そのきっつい香水の女を選んだのは啓司じゃん。それに頭痛が痛いって。あははっ」
はむっ。
「うるさいよ。黙れって」
俺の口にリンゴを運びながらも、目に涙を浮かべて大笑いするこいつに、無性に腹が立ってきた。
「さすが啓司、期待を裏切らないわぁ。頭痛が痛いっ、あはは」
まだ笑ってやがる。
「黙らないと、そのデカ口、塞ぐぞ」
目の前のスプーンを差し出すこいつの手をおもむろに掴み、自分の方に引き寄せる。
逃げられないようにこいつの後頭部を手で支え、おでこと鼻をこいつのそれに当てた。
触れ合いそうになる唇と唇。キスまであと数ミリ。
「……啓司の瞳の色が好きよ」
驚くこともなく、かといって目を閉じて俺の戯言に乗る訳でもなく、余裕ありそうな笑みを浮かべて、こいつはそう呟いた。
「どうしたのよ、珍しく甘えちゃって」
こいつには勝てない。全部お見通しだ。
今度は、こいつが俺の後頭部に手を添えて、自分の肩に誘導する。 背中をトントンとするリズムが気持ちいい。
「お前はオカンか」
「オカンと思って、話してみれば?」
トン、トン。
「……仕事……やらかしちまった」
「金曜日?」
トン、トン。
「……ああ、命かけてここまでやってきたのに……たった一日で壊しちゃった。怒ってる客もいるだろうな。熱で覚えてないなんて言い訳にもならないし。メンバーにも迷惑かけて。体調管理もできないなんて情けね」
「そうね、プロ失格ね」
トン、トン。
「……おい、そこは慰めろよ」
「ふふっ。だってその通りだもの。自分でも十分に分かっているから、そうやって落ち込んでるんでしょ」
トン、トン。
「でも、これで終わりにしないわよね?」
「……ああ」
トン、トン。
「まだ、夢を叶えてないものね? 啓司はバカだけど、やるといったらやり遂げる男よね?」
「……バカは余計だ、バカ」
「ふふっ。NINE WORLDだっけ、あのプロジェクトもこれからまだまだ続くんでしょ?」
トン、トン。
慰めるわけでも叱咤激励するわけでもない、こいつの淡々とした口調に、落ち込んでいるのがバカらしくなった。
「……ああ」
「じゃ、早く治さないとね。頭痛が痛かったら満足なパフォーマンスが出来ないものね? ふふっ」
自分で言って笑いを堪えきれないこいつ。
「……なあ、それ、何でそんなにおかしいんだ?」
俺の素朴な疑問に、またキョトン顔。
「あー、もう、やっぱり啓司だわ。さすが小2で本を読むのをやめただけある。まだ熱もあるみたいだし、しょうがないか」
妙に感心しながら、俺のおでこに手を当てて熱を測る。
「うっさい。もう、いい。寝る」
ふてくされてベッドに身を沈めた。
「うん、明日は仕事でしょ? 熱、下がるといいね」
このとき、俺は何を考えていたのだろうか。寝ている俺に布団をかけてくれようとするこいつの右手をとっさに掴んでいた。
「ん? どうした?」
「……帰るなよ」
「大丈夫よ。病人を一人にしないって」
左手で俺の手を握り返し、そっと布団の中に入れる。そして、ベッドの横に座り、また右手を俺の首にそっと添えた。やっぱりひんやりとして気持ちいい。
「……どこにもいくな。ずっとここにいろよ」
「はいはい。啓司はこう見えて淋しがり屋だもんね。寝るまではここにいるって」
鈍感な奴、俺の言っている意味が分かってない。それともわざとか。
「……そうじゃない」
「ん?」
「いや、なんでもない。……おやすみ」
まあ、いい。今は何も考えなくていい、とにかくこいつの隣で寝てればいい。俺はそっと目を閉じた。
――ぼんやりとした頭の向こうの方でこいつの声がする。
「髪の毛ふわふわ」
俺の髪を優しくなでる手。
「じっとしていられないのは啓司でしょうに……」
髪を撫でる手は止まらず、少し寂しそうな声を出す。
ああ、やっぱりさっきキスしておけばよかった。ぼんやりそんなことを思いながら、俺は意識を手放した。
*****
目が覚めると、夜が明けていた。嘘のように身体が軽い。ベッドから起き上がる。あいつはもういなかった。まあ、そんな予感はしていた。
「ふわーっ、腹減った!」
大きく背伸びをして、まぬけな独り言を言いながら寝室を出ると、ダイニングテーブルには俺の好きな果物が置いてあり、その脇には紙切れ1枚に見覚えのある文字。
『頭痛が痛いのは治った?(笑)
思う存分動き回れば? 啓司がそこら辺でのたれ死んだときは、骨を拾ってあげるから』
書いてある生意気な言葉には似つかわしくない、可愛らしいあいつの文字。
「バカか、勝手に殺すなよ」
ついひとりごちた。
「あ、頭痛が痛い。そゆこと?」
バカなのは俺か。文字を見て、やっとあいつが昨日笑っていた意味を理解する。
「うっせー、バーカッ」
こめかみをかきながら、いない奴に向かって悪態をついた。
スマホを探すと、リビングのテーブルの上でちゃんと充電されていた。
LINEを開くと、あいつがメンバーに『2日間休む』と連絡を入れてくれている。その下には、メンバーからの体調を心配するメッセージが並んでいた。てっちゃんのコーヒーが恋しい。
モデルの女からは『今度はいつ会えるの?』という催促。とりあえず、既読スルー。
そして、プロジェクトのスタッフから今日の打ち合わせの時間と場所の連絡。やっぱり、止まっている暇はなさそうだ。
「おっしゃ!また働くか!」
両頬を叩き大きな音を立てて気合を入れた後、あいつの用意したイチゴを頬張った。
「ヤバッ、うっめ!」
――これからまた、いつもの日常が始まる。
朽ちる身体 Vol.1 ― SAKURA(桜)
――私は、人を愛するという感覚がわからない。
いつも私とは別の人間が俯瞰で見ている感覚。いや、俯瞰で見ている方が私自身であり、動いてる人間はどこか違う。何かが違う。それは人というより動く物体。
だからと言って感情がないわけではない。痛いし、悲しいし、寂しいし、嬉しい。子どもや子犬はちゃんとかわいい。
――こうして、満開の桜を見て綺麗と感じる感覚も持っているのに。
それでも……自分に対する実感がない。愛が分からない。きっとこの感覚は誰にも分かってもらえないであろう。私は半ば人生を諦めていた。
――貴方に会うまでは。
*****
4月。桜も満開を過ぎようとしており、はらはらと川面に花びらを落としていく目黒川。この季節、日中は辟易としてしまうような人込みだが、さすがに日付も変わりそうな時間だと歩いている人もいない。
私は、この時間帯にここを歩くのが好きだ。ライトアップもされていない暗い通りだが、花自身が持つ白い輝きと月明かり、それを映す水面で仄かに桜が浮きだっている。
そのぼんやりとした美しい白を眺めながら、私はゆっくりと歩を進めていた。愛でていたのは桜なのか、それとも桜を愛でている私なのか。そんな答えのない、出す必要もないことを考えながら、「私」という物体を動かしていた。
暫く歩いていると、私の目線の少し先、ひときわ大きな桜の下にある人影が見えた。
長身でスタイルのよい男性。白いシャツ、黒いロングジャケット、黒い細身のパンツというシンプルな服装が、シルエットの美しさを更に強調させる。
モノクロの世界の中、その人の髪だけが青という「色」を放つ。
枝から零れ落ちるように垂れて咲いている桜を手に取るその人影の男性は、そのまま、桜の花にそっと口づけた。それが貴方だった。
――夜半の嵐が吹き、散り始めた花びらたちが貴方の周りに纏わると、私の中の時間(とき)が止まる。
桜を手に取ったまま、貴方はゆっくりとこちらに顔を向けた。私を見て、なぜか笑顔を浮かべている。知らない人間がじっと自分を見ているなんて気持ち悪いはずなのに、そんなことにはお構いなしのよう。それとも、こんなに麗しい容姿を持っている人間は、他人から見つめられているのに慣れているのだろうか。
目尻に刻まれた皺をそのままにして、貴方はゆっくりとこちらに近づいてくる。
「……見つけた」
いつの間にか私の目の前に来ていた貴方。今度は真顔になって私の顔を見つめた。血が通っていないような真っ白な顔で、黙って私の左頬に優しく手を添える。その細くて長い指は驚くほど冷たくて、私の肩は心臓とともに少し跳ねた。
そんな私の小さな驚きに、貴方は少し困ったようにまた微笑んで、
「ごめん」
と小さく謝った。でも、私は何故謝られているのかが分からない。見知らぬ男性に触られている、という恐怖は全くなかった。
――私は、もうすでに貴方に囚われていたから。
漆黒の闇の中。見上げると、背の高い貴方の美しい顔越しに蒼白い月の光。舞い落ちる薄桜。貴方は苦しそうな息遣いになり、私に段々と近づいて来て……
そして、貴方の右手から力が抜け落ち、青髪が頬を掠め、私の肩に頭がのせられた。
「ごめん」
もう一度貴方が言う。呼吸とともに肩が大きく上下している。
「このまま朽ちようとも思ったけど……見つけてしまった……君を……道連れにしてごめん」
貴方の右手が私の肩を撫で上げると、ブラウスの襟に手をかけた。一番上に留まっていたボタンが千切れ、露わになった首元にひとひらの花びらが舞い降りる。
冷たくなった貴方の唇がそこに押し付けられたとき、私はそっと目を閉じた。
そのとき微かに感じた肌を抉るような痛みには気づかない振りをした。というより、寧ろそれを喜んで受け入れた。
それは私がようやく感じることのできた「生きている証」だったから。
――これが、私が美しくて優しすぎる吸血鬼に囚われた瞬間。
End