Let Go Again
この人といつも二人で来ていたBar。いつも綺麗な夜景が、今夜は雨粒で滲みながら、よりキラキラと光っている。
いつも座るカウンターの端の席。いつものように彼は私の左側。年上の彼と過ごす大人の夜。
でも、ここに来たのは何か月ぶり。もう二人では会ってくれなくなっていた彼からの、久しぶりのお誘い。大抵は当たってしまう私の悪い勘も、今日だけは外れる。きっと。
……でも、それはやっぱり当たっていたみたい。
彼がゆっくりとグラスを傾けると、中の氷がカランと空しい音を響かせた。
「マスター、彼に同じものをもう一杯」
グラスが空になると、この時間が終わりになるから。彼が困った顔をしたことには、気づかないふりをした。
マスターが静かに彼のグラスを交換する。
「……伶菜?」
幾度となく、そう私を呼んでくれた優しい声。あと何度、同じように呼んでくれるであろうか、その声で。
「なーに?」
わざと、甘ったるい声を出してみる。
「……俺たちはもう会わない方がいい」
「……いやだといったら?」
私は、彼の右手に自分の手を重ねた。彼は、こちらを見てはくれない。
「伶菜……」
「……私のこと、もう愛してはくれない?」
「愛してた、よ……」
俯いた顔。彼の睫毛が瞳の下に影を作る。
「これからは? もうあなたの中に私はいない? これっぽっちも?」
彼を困らせているのは分かっていた。それでも、彼の愛がほしかった。
彼の右手が、重ねられていた私の左手をゆっくりと握る。大きくてしなやかで私よりほんの少しだけ暖かい、その彼の手に包み込まれるとき、私はいつも幸せだった。その時は彼を独り占めできたから。
でも、それはほんの一瞬だった。彼の手に力が込められたとき、『伝わった』と、そう思ったのに。
すぐに、私の左手はその大切な暖かさを失った。
「……そろそろ、帰るよ」
私の大好きなその笑顔で、簡単に終わりを告げないで。
でも、その瞳の色が少しだけ苦しそうに見えるのは、私の願望なのだろうか……もう視界が滲み、それをはっきりと分かることができなくなった。
「伶菜? これからは伶菜だけを愛してくれる人を見つけて。幸せになって」
彼は私の頭をそっと触れると、そう呟いて、カウンターの席を立った。
閉まる扉の音が鈍い。
私は、彼が残した最後の一杯を一気に飲み干した。
「分かってる……分かってるけど、それができたら……こんなに……」
お願い、私を一人にしないで。
*****
「マスター、こんばんは」
「こんばんは、啓司さん」
「こいつ、またつぶれてんの? いつもごめんね」
「啓司さんこそ、いつもご苦労様です」
「まぁね、もう慣れてるから。ほら、伶菜、帰るぞ」
頭にポンポンと心地よいリズム。聞き慣れた声。少し目を開けると、サングラスを少しずらして、呆れながらも心配そうにこちらを覗く優しい瞳がそこにあった。
「……お、義兄ちゃん? 迎えに来てくれたの? ありがとう」
瞼が重い。
「おい、寝るなよ! 担いで帰る俺の身にもなれ」
「ふふっ。いつもごめんねー。でもさぁ……もう限界……」
私は、いつも差し伸べてくれるこの手を、やっぱり大きくて暖かいけど、あの人とは違うごつごつとした男らしい手を握り、そのまま目を閉じた。
悲しい一日が終わることだけを願って。
「おいっ! て……もう……伶菜? 伶菜?……」
泣いていた私に、あの人が笑顔を向けてくれる。最後に見た苦しそうな笑顔じゃなく、目尻に皺を寄せて崩れるほどの眩しい笑顔で。『伶菜』って何度も呼んでくれるの、あの声で。
「お、願い……もう、一人にしないで……」
涙をぬぐいながら頬を包み込んでくれる大きな手は、あの人のものなの。きっとそう。きっと……
「……健一郎……さん……」
だからお願い、夢なら冷めないで……その手を、その声を、あなたを独り占めさせて……
「……伶菜……幸せになってくれよ……じゃないと、俺はもう……」
ずっと夢を見ている私に、お義兄ちゃんの声は届かない。
End