My boy Vol.2 ―― Keiji.K

Vol.1  Vol.2

 

*****

 

――ちょこんとテーブルから顔だけが出ている。

 家に初めてきた小さな客。

 

 あれから、何とかつかさをトイレに連れて行き、シャワー、着替えを済ませ、今はこいつの汚れたパンツを洗濯中。

 

「飲むか?」

 やっと泣き止んだこいつの前に、牛乳の入ったコップをコトンと置いた。

 小さな頭は、俯いたまま横に揺れる。

 

「お前、つかさっていうの?」

 今度は縦に揺れた。

 

「ママは、”ゆう”?」

 縦に小さくコクン。

 

「パパは?」

 恐る恐る聞いてみる。

 

 すると、つかさがゆっくりと俺を指さした。

 

「……けいじくん……ってママが……」

 

「嘘だろっ! おいっ!」

 思ったより大きな声が出てしまい、つかさの肩がビクッと上がった。

 

「あ、ごめん。脅かすつもりじゃなかった」

 咄嗟につかさの頭を撫でる。それにしても……

 

「はーっ」

 溜息しか出ない。こいつが俺の息子? 息子って? そんなことまったく聞いてない。社長に何て言えばいいんだよ。いや、そもそも本当に俺の息子? 由宇、なに言っちゃってんの? 由宇は嘘をつくような奴じゃない。でも、はいそうですか、と信じるわけにはいかないだろ、由宇!

 

「……けいじ、くん?」

 どうやら途中から言葉が口から出ていたようだった。つかさがこちらを不安そうに見ている。

 

「そうだ! 由宇は? ママはどこに行った?」

 俺を見上げていたつかさが固まった。

 

「ママ……ママが……けいじくんの、とこ、ろにって……」

 みるみるうちに目に水が溜まっていく。

 

「あー、分かったから。男だろ、泣くなって 」

 困って頭をくしゃりと撫でてやると、つかさはシャツの袖で目を擦った。

 

「……泣いて、ない、もん……」

 

「ん」

 もう一度、牛乳を差し出してやるが、やっぱり首を横に振るつかさ。ったく、その強情さは誰に似たんだよ。

 

「それで、ここまでどうやって来たんだ?」

 そう尋ねると、つかさは黙ったまま、ポケットの中からくしゃくしゃに丸まった紙と鍵を取り出し、テーブルの上に置いた。

 鍵は見覚えがあった。由宇が持っていたここの鍵だ。『K』が象られた革製のキーホルダーにつけられている。

 丸まった紙を広げると、由宇の文字でここの住所とつかさの家からここまでの行き方が大きなひらがなで書いてあった。

 

「お前ひとりで?」

 無言で首は縦に。

 

「……えらかったな」

 素直に褒めると、つかさはまた下を向いた。

 

 微妙な空気。何を話していいか分からない。由宇のことを聞きたいが、また泣かれてもなぁ。しかも由宇にそっくりなその大きな目でさ。

 

 しばらく続いた沈黙を破ったのは、漫画のようなあの音。

 

 グーーーーッ。

 

「お腹、すいたのか?」

 つかさに聞くが何も答えない。

 

「何か言えよなぁ」

 

 グーーーーーッ。

 

「プハッ。それが答えかよ。何か食う?」

 子どもに食べさせられるようなもの何かあったかなぁ、と冷蔵庫の中身を思い出そうとしていたとき、つかさが上目使いでこっちを見た。

 

「……オ……ライ……」

 小さなつかさの声。

 

「ん?」

 

「……オムライス」

 

「オムライス?」

 

「……ママが言ってた……けいじくんの、オムライス、は、おいしいって……」

 

「由宇が?」

 小さな頭が縦に動く。

 

「ん、ちょっと待ってろ。今、うまいの作ってやる」

 久々に誰かのためにキッチンに向かった。

 

 確かに由宇にはよくオムライスを作ってやったな。あいつ、俺より料理ができなかったぞ。つかさはちゃんとご飯を食べさせてもらってたのか?

 

「卵はあるだろ、鶏肉、玉ねぎ、人参、意外とあるじゃん。あと……ピーマン、か」

 冷蔵庫の中から材料を取り出し、切り始めた。

 

「つかさー?」

 俺の声を聞いたつかさは、ぴょこぴょこ歩いてキッチンまでやってきた。

 

「お前、ピーマン大丈夫?」

 予想に反して、つかさは「うん」と答えた。

 

「ママが、ピーマン食べないと大きくなれないって」

 

「プッ! よく言うよ。あいつ、ピーマン食べられないくせに」

 

「……ママ、小さくして、オムライスに入れたら、食べられるって、言ってた、よ」

 

「……ふーん」

 

 あいつ、よく言ってた。『啓司くんのオムライスならピーマンも食べられる』って。子どもみたいな笑顔で。何だよ、俺のこと、忘れてないじゃん。じゃあ、何が不満で出て行ったんだよ、あいつ。ずっと長い間考えても分からなかった、今も心の奥で燻っていた疑問が蘇った。

 

 と、同時に閃いた。

 

「あ、そか」

 つかさか? こいつができたから、お前はいなくなったの? そういうこと? 由宇。

 

「ん?」

 手を動かしながらもぼんやりと考え事をしていたら、Tシャツの裾がツンツンと引っ張られた。

 

「どした? まさか、またおしっこ?」

 つかさはプルプルと首を振った。

 

「……お手伝い、する」

 

「お、おう、じゃ、ここにスプーンがあるから持って行って」

 

「はい」

 素直に返事をし、スプーンをテーブルに置くつかさ。躾ができている。絶対、俺の子じゃない。

 

「食っていーぞ」

 出来立てのオムライスをつかさの前に置く。つかさは大人しく座って、まっすぐ背筋を伸ばし、両手を合わせた。

 

「……いただきます」

 つかさはぺこんとお辞儀をし、スプーンで小さめの一口をすくって頬張った。お上品だ。絶対に、絶対に俺の子じゃない。

 

「うまいか?」

 つかさの顔を覗く。もぐもぐと動く口。一口目がコクリと喉を通った後、小さな瞳が一回ギュッと閉じ、そのあと、パーッと明るく開いた。

 

「うんっ!」

 初めて見るこいつの笑顔。前歯をむき出しにニターーッって笑う。その顔は、まるで、まるで。

 

――やっぱり、俺の子、か。

 

「あーっ、もう! 考えるのやーめた、面倒くさい!」

 俺の二度目の大きな声でまたびっくりするつかさ。不安そうな顔をするから、同じ顔でにんまり笑ってやった。

 

「あ、わりぃ、わりぃ。早く食っちまおうぜ」

 勢いよくオムライスを口にかっ込む。つかさも一緒にスプーンを口に運んだ。

 

「っうめっっ! 俺、天才! お前もそう思わねぇ?」

 

「うん! けいじくんのオムライス、おいしいっ!」

 

「当たり前ー!」

 そう言いながら食ってたら、2人の皿はあっという間に空になった。 

 

「ごっちそうさまー!」

 2人で合掌。それと同時に鳴る、エントランスからのインターホン。画面には、仕事の迎えに来たマネージャーの顔。

 

「わ、もうそんな時間かっ! やべっ」

 どうせあっちで着替えるから、と洋服はそのままで、慌ててキャップを被る。 『すぐ行く』とインターホンに返事をし、最近お気に入りの赤いワンショルダーバッグを引っかけて。

 

――また、ツンツンとTシャツの裾を引っ張られる感覚。 

 

 そうだ、こいつがいた。つかさの前で屈み、目線を合わせる。

 

「一緒に来るか?」

 

「……いい、の?」

 

「一人でここにいるか?」

 

「……ううん」

 

「ん、じゃ」

 俺が手を差し出すと、つかさもおずおずとその手の上に自分の手を重ねた。

 

「けいじくん?」

 

「ん? 何だよ」

 

「けいじくんがえらい人に怒られない?」

 俺の方を心配してくれるつかさ。つかさの方が不安だろ。

 

「まぁ、なんとかなるだろ」

 ギュッと握ってやる。つかさも小さな力なりに握り返してくれた。

 

「ん」

 そのまま手を繋いで、玄関を出た。

 

「じゃ、行くか」

 2人で並んで廊下を歩き、エレベーターに乗り込む。

 

――これが、つかさと2人で過ごす生活の、初めの第一歩。

 

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Continue

 

*****

 

Vol.1  Vol.2

 

 

My Boy Vol.1 ―― Keiji.K

Vol.1  Vol.2

****

 朝は弱い。昨日もレモンサワーを飲み過ぎたし、とどめのラーメンで胃ががっつりもたれてる。やっぱりもう若くはねぇなぁ。仕事が昼からでよかった。暫くベッドに潜ってよう。

 ピンポーン

 誰だよ、朝っぱらからうっせーな。一人で寝るには大きすぎるベッドの上で寝返りを打ち、シーツを頭から被った。

 ピンポーン

 ん? 部屋のインターホン? オートロックを抜けてるってことはマネージャーか?

「やべぇ、時間、間違えちまったか‥‥‥」

 しょうがない。目を擦りながら重い身体を起こす。上半身裸のまま、そこに放り投げていたスウェットのズボンを履きながら玄関に向かった。汗をかいててベタベタするし、尻がかゆい。

「わりぃ、シャワーだけ浴びさせて」

 玄関を開け、頭をかきながらマネージャーに向かってそう言った。

 が、そこにマネージャーはいなかった。‥‥‥というか、誰もいなかった。

「ん?」

 どういうこと?

 ツンツン、ツンツン。

 スウェットのズボンを引っ張られる感触に、下を向くと‥‥‥


 リュックサックを背負ったガキ、失礼、小さな男の子が一人。何歳くらいかわかんねぇ。幼稚園くらいか?

「はーっ?」

 ツンツン、ツンツン。ただ驚くだけの俺にもう一度ズボンを引っ張るガキ、失礼(以下略)。

「っんだよ」

 つい大きな声を出してしまい、ガキがビクッと肩を震わせた。

「わりぃ」

 頭をかきながらガキに謝った。

「親とはぐれたのか? 名前は?」

 ガキの頭に手をのせて尋ねると、ガキは口を真一文字に結んだまま、胸に抱えていた紙を俺の前に差し出した。

「ん?」

 差し出された紙を広げたら、そこには短い文章が書いてあった。



【つかさはあなたの子です。今さらごめんなさい。頼れるのが啓司しかいないの。どうかつかさをよろしくお願いします。啓司が引っ越ししていませんように。由宇】



 懐かしい、由宇の字だった。5年前、この部屋から突然消えた女。

 こっちを心配そうに見るガキの顔を見る。これが俺の子ども? 確かに由宇の面影があるが、これが俺の子ども?

「はっ? 嘘だろ。 由宇、どういうことだよぉ」

 思わずしゃがみこんで頭を抱える。書き置きってことは由宇はここにはいないのか? なんの冗談だよ。

「ママー」

 ちょうど頭の横。初めて聞くガキの声。

 ガキを見ると、目に涙を溜め込んで、流さないように必死に堪えている。

「お前、捨てられたの?」

 ガキの瞳から落ちまいと耐えていた涙が一粒、ポロリとこぼれた。それがトリガーとなって、我慢して無理やりに大きく開いていたガキの瞳が閉じ、顔がぐちゃぐちゃに崩れる。

「ママーー! ママーーー! エーンエーン」

 ポロポロと崩れ落ちる涙。子どもって本当にエーンエンって泣くのな。ってそんなこと感心してる場合じゃねぇ。

「わー、泣くな、泣くなって!」

 ガキの目からはどんどん水が溢れ出て、Tシャツを濡らしていく。そしてTシャツだけじゃなく、ズボンまでも‥‥‥

 ん? ズボン?

「わっ! お漏らしかっ!」

「わーん、ママーーー! エーン!」

「待て! 待てっ、ガキ! じゃねぇ、つかさ!! 待ってくれ! 」

 俺はそのままつかさを脇に抱え、風呂場にダッシュした。

「泣くな、つかさ! まずは脱げっ。えっ、うんち? わ、待て、待てって!」

 
 わーーーーっ!!!



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Vol.1  Vol.2


The Ripper (※閲覧注意)

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 9月の夜雨はアスファルトから熱気を奪い、その独特な匂いと不快感をぼんやりと立ち昇らせる。

 

 予想外に残業が長引いた。女は殆ど車の通らない暗い道を急いだ。

 

 路地裏を曲がると、その少し先に男が一人、ガードレールに腰をかけていた。持て余すように前に投げ出している長い脚が、男が長身であることを物語っている。足元に目線を置いたまま、ポケットに手を入れ、楽しそうに鼻歌を歌う男。

 

 女が男に近づくにつれ、その聞いたことのあるフレーズが第九、歓喜の歌であることが分かった。

 

――それまでの完成された世界の全否定と強烈な不協和音、そこから脱して初めてこの最高の音楽が誕生するんだよ――

 

 あの人の口癖、女はそんなことを思い出していた。

 

 傘も差さず、どれくらいそこにいたのだろう。街灯に照らされた金色の髪が濡れそぼり、雨粒が光を反射していた。

 

 男が気配に気づき、目線を女に向けた。光を通していない、それでいて美しい琥珀色の瞳。薄い上唇は真一文字に結ばれている。怖い、一瞬女は身震いした。

 

 


「よっ」
 男は軽やかにガードレールから降り、右手を挙げた。いつものように歯を出し、女に笑顔を向けている。怖いと感じたのは気のせいだったのか。

 

「何だ、啓司じゃない。びっくりした」

 人通りが少ない路地を一人で歩いていた心細さに解放されたこともあり、女は安堵した。相手が啓司だったこともある。

 啓司は女が最近付き合い始めた恋人の友人だった。長身に加えて骨太で程よく鍛え上げられた筋肉質の身体、鋭い眼光で強面の男らしい顔、自分をよく知った上で流行をとらえて着こなした服装。その文句なく男前の外見に反して、話してみると屈託なく笑い喋り、時々天然を発揮する。その親しみやすさで、女にとって啓司は和む、そして少しだけ意識してしまう存在になっていた。
 何より啓司は喧嘩が強い。これでもう安心だ。


「傘もささずにどうしたの? 私を待ってたの?」 

 

「あぁ。そろそろ帰るころだと思ってさ。こんなに降ると思ってなかったから。へへっ」
 啓司は濡れて重くなった頭を仔犬のようにブルブルッと振り、周囲に水しぶきが飛び散った。

 

「くすっ」
 女が思わず笑みを零した。啓司が濡れないよう、自分がさしていた傘を啓司に向ける。

 

「何?」

 

「かわいいなって」

 

「こんなおっさんに何言ってるの」
 啓司がわざと片眉をあげた。

 

「照れてんの?」

 

「……うっせー、バーカッ」
照れて真顔になる啓司もかわいいと思えた。

 

「で、どうしたの? 私に何か用事があったから待ってたんじゃないの?」

 

「あぁ、そうだった」
 啓司がまたへらっと笑う。

 

「もう、まさか忘れちゃったとか?」
 いい加減な啓司にはよくあることだ。啓司はまだ笑っている。女もつられて笑った。

 

「……いやぁ、ねぇ」


「何?言いにくいこと?」


「そんなことないけど」
 くぐもった啓司の声。一呼吸おいてまたにやけた。


「俺にしたらどうかなぁって?」


「はぁ?」
 女は啓司の言葉を理解できなかった。


「だって、あいつもうお前のこといらないんだって」

 

「彼がそう言ってるの?」
 ヘラヘラと歯を出したままでとんでもないことを言う啓司に、耳を疑った。 信じられなかった。

 

「かわいそうに。俺、お前のこと気に入ってたのになぁ」


「えっ?」
 啓司は何を言っているのだろう。突然のことで訳が分からない。

 

「お前、いい女だし」

 

「ねぇ、一体……んっ!」

 

 言葉が終わらないうちに、啓司は女の唇を奪った。女は啓司の胸を叩き抵抗を示すが、もちろん啓司はびくともしない。唇を貪るように塞ぐ。長く激しい口づけに息苦しくなり少し口を開ける、その瞬間を逃さず、啓司の舌が女の口内に滑り込んできた。啓司は巧みに女の口内をくまなく蹂躙していく。

 

 女は抵抗をやめ、激しく動く啓司の舌の動きに必死についていった。崩れ落ちそうになる女の腰を啓司の大きな手が支え、女の身体を引き寄せる。


「んぇ」
 漏れる息。強くなる雨音。時折ヘッドライトが二人の足元を照らすが、向こうからは死角になっていてこちらは見えない。


 啓司の香水が雨とアスファルトの匂いを掻き消し、女の鼻腔をも犯していった。無我夢中で、ここが外であることも身体が濡れて冷え切っていることも忘れていた。

 

 啓司がようやく唇を離したとき、女は息があがり、肩が上下していた。濡れた瞳でうっとりと啓司を見つめる。


 それは女が堕ちたとき。

 

「ごちそうさま」
 啓司は、おいしかった、と女の赤いグロスと唾液で濡れ光った唇を骨ばった手で無造作にぬぐった。その仕草はとんでもなく男の色気を放っていた。

 

 

「じゃ、バイバイ」

 それが啓司が女に発した最後の言葉。

 

 

何が起きたかわからなかった。

 

 

「けい、じっ…」

 それが女が発した最後の言葉。

 

 

 

 いや、女は途中までしか音を放つことができなかった。

 

 啓司がポケットからバタフライナイフを取り出した瞬間、シュッンという風の音とともに女の喉が掻き切られた。女の首の穴からヒューヒューと空気が漏れる。

 

 女が最後に目にしたのは、啓司の妖しく光る琥珀色の瞳、いつも彼が左耳につけている十字架(クロス)のピアス、そして、顔中に自分の血が飛び散った彼の微笑み。


 啓司が手を離すと、物体と化した女の身体がアスファルトに倒れこんだ。

 

 男は片方の口角を上げたまま、女の血がベットリとついたバタフライをひと舐めする。

 

「ごめんねぇ。あいつが殺れっていうからさ」

 

 男はいつものようにヘラヘラと笑い、その場を後にしていった。雨にうたれ、歓喜の歌を口ずさみながら。

 

 

End

 

朽ちる身体 Vol.4 ―― Silk Jasmine(月橘)

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*****

  

「もうおしまいにしよ?」

 二週間ぶりに抱いた恋人は、ベッドの上で背を向け、下着を身に付けながらさらっと明るい声でそう言った。

 

「何、どうしたの? 俺が何かした?」

 彼女の腰を取り、こちらに引き寄せようとするが、その手を振りほどかれる。

 

「ううん、何も。ただ……私を愛してくれない人と一緒にいるほど暇じゃないから」

 わざとはすっぱな言葉を選んだ彼女。感情を押し殺した声。

 何も言い返せずにいると、彼女は何事もなかったように身支度を整えていった。

 

 コトリ、とテーブルに置かれる部屋の鍵。

 

「じゃ」

 たったそれだけの別れの言葉と、閉まるドアの音。

 

 分かっていた。最後の彼女の声が震えていたことも、今すぐに追いかけて彼女を抱きしめてあげれば元に戻れることも、それが彼女の一縷の望みであることも。

 分かっていて、足が動かなかった。ただ乱れたままのベッドに座っているだけだった。

 

 いつもはうまくやれるのに、今回の彼女には見抜かれてしまった。別れを切り出されるのは初めてだった。それだけ、彼女はちゃんと「俺」を見てくれていたのだろう。

 

――彼女には分かっていたのだ。ボクが人を愛せないということが。


 ボクは誰にも支配されたくなかった。恋人にも家族にも、もしかしたら自分自身、その身体にすら。
 だから、ボクにはいつも現実感がなかった。 心が身体に縛り付けられていない。それは自由なようであり、不安定でもあった。

 その心許なさを埋めたくて恋人を作るが、しばらくして窮屈になり手放す。今まではその繰り返しだった。今回は手放すより先に、その身勝手さを見破られてしまったけど。

 

「はぁ。新作でも考えるか」

 溜息と独り言を部屋に残し、すぐ近くにある自分の店に向かった。

 

 真夜中の湿った空気、アスファルトからぼんやり昇ってくる独特の匂いが、一度雨が降ったことを知らせている。見上げると雨雲は流れたようで、すでに何個かも星が見えていた。

 

 ――今夜も青白い満月が白い花を照らし、甘い香りが立ちこめているであろう。

 

 店の前にディスプレイとして植えているシルクジャスミン。この季節は青々とした葉からたくさんの白い花が咲き零れている。別名は「月橘」(げっきつ)。ジャスミンのような甘い香りが月夜の晩だとより強く香ると言われる花だ。

 

 店に向かう最後の角を曲がると、アスファルトの匂いは消え、想像した通りの爽やかな香りがボクをいざなった。

 

  目に入ったのは、先ほどの雨で濡れそぼつ月橘と、月の光に照らされたボクより少し小さな人影。

 

 艶やかな漆黒の長い髪を一つにまとめ、シンプルで真っ白なワンピースを着ている美しい女性。それが貴女だった。月橘の前に立ち、花の香りを嗅いでいる。店のシェードで雨宿りをしていたのか、身体はあまり濡れていない。それなのに、切れ長の目に乗せられた長い睫だけが濡れていて、なぜ貴女が泣いているのか、それがとても気になった。

 

 

  真っ白な花を手折る、その爪だけが深紅という「色」を放つ。

 

 

 手折った花を持ったまま、貴女はゆっくりとこちらに顔を向けた。ボクを見てなぜか笑顔を浮かべ、近づいてくる。

 

 ボクは貴女に囚われたまま、身動きすることができない。

 

「……見つけた」

 いつの間にか目の前に来ていた貴女。強いジャスミンの香りがボクの鼻腔を刺激する。

 

「このまま朽ちようとも思ったけど……見つけてしまった……アナタを……道連れにしてごめんなさい」

 

  花の香りより甘い声。ボクをまっすぐに見つめる優しい瞳。少し困ったような弱々しい笑顔。透き通るほど白い肌。

 

 視線が下に移動し、ボクの首にある数多のホクロをゆっくりと順番になぞっていく。ボクは貴女のなすがまま。

 

「白くて綺麗な肌……」

 貴女が嬉しそうにそう呟く。そして、鎖骨の上にあるひとつのホクロに手が止まり、綺麗な深紅のネイルで彩られた長い爪がそこに小さな痛みを与えた。

 

 ボクの白い肌から緋色がじわりと滲みでる。

 

 その痛みは初めての感覚で、そう、「快感」と呼べるものだった。ボクの身体はようやくボクの一部となった。

 

 それは、ボクがようやく感じることのできた「生きている証」だったから。

 

  流れる緋色の血が、貴女が持っていた月橘の花に滴り、その純白を深紅に染める。まるで貴女の爪と同化するように。


  ひんやりと冷たい貴女の唇が、鎖骨につけられたその小さな傷にそっと押し付けられたとき、ボクはそっと目を閉じた。


「……これで、やっと朽ちることができる」

 それは、貴女とボク、どちらの言葉だったのか、今はもう思い出すことができない。

 


――これが、ボクが美しくて優しすぎるヴァンパイアに囚われた瞬間。

 


End

 

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朽ちる身体 Vol.3 ― Scabiosa(スカビオサ)

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*****

 

 月白の光が、驚いた健一郎さんの顔を照らした。その光に照らされた髪は青というより碧く、美しいなぁなんてぼんやり考えていた。

 

「自分が何を言っているか、分かってる?」

 一呼吸の間をおいて、彼が言葉をのせた。

 私はただ頷く。

 

「吸血鬼になるつもり?」

 

 「……はい」

 もう一度頷いた。あなたと同じものになりたいから。

 

 健一郎さんが溜息を一つ、深く吐いた。

 

「元には戻れないんだよ」


「分かってます」

 

「じゃ、何で?」

 

「貴方と生きていたいから」

 私は答えを迷わなかった。

 

「それが永遠に続くんだ。君は、それがどういうことなのかわかってない」

 彼が私を見つめる。その瞳は、突飛なことを言い出した私への驚きと同情と……懇願だった。

 

「ううん、分かってるよ」

 私は彼のこめかみに触れ、その碧い髪に指を絡ませる。

 

「……私には別れを悲しむような人もいない。私は、今まで一人だったの。ううん、一人ですらいなかった。私は生きていなかった。今、貴方のおかげで私は生きているの」

 

 彼は俯いて、私が紡ぐ言葉を聞いていた。私は彼の頭をそのまま引き寄せ、胸に彼を抱く。

 

「……もう一人はいや。貴方を一人にするのもいやなの。これで貴方の孤独を終わらせてあげられる」

 

 彼は目を瞑り、おでこを私の胸に委ねてしばらくそのままにしていた。その重みが心地よくて、私はそのまま彼の髪を撫でていた。

 

「ねえ」

 健一郎さんが私を見上げる。背の高い彼に見上げられるのは初めてのことで、甘えた声と合わさって、なんだかとても彼が可愛らしかった。

 

「ん?」

 

「知ってる? 吸血鬼にも性欲はあるんだ」

 目尻に皺を寄せた、私の大好きな彼の微笑み。

「ふふ。さっき聞いたわ」
 

 自然と体勢が変わり、もう私は彼の下に。今度は彼が私の髪を撫でる。彼が私を見つめる瞳にはもう先ほどの混乱や懇願はなく、あるのはただ濡れかかる妖艶。

 

「ずっとこうしたかったんだ。我慢できなくなるから、なるべく会わないようにしてたのに」

 彼はゆっくりとそう言いながら、私のブラウスのボタンを一番下まで丁寧に外していった。

 

「私がしたかったの」

 わざと軽い言い方をした私に、彼は愛おしそうな視線を向け、頬を撫でる。それがくすぐったくて堪らなかった。

 

「ねぇ、吸血鬼でもキスはできるの?」 

 

「どうだろ、試してみようか?」

 おどけて聞く私に向かって、彼は片方の口角を上げた。そこには牙は見えなかった。便利な牙だな、なんて考えてると、そのまま健一郎さんの顔が近づいてきて、私たちははじめてのキスをした。

 

 食料としてではなく、私自身を求めてくれる彼の舌の動きに、私はすぐに夢中になった。

 

 月夜に照らされ、重なる二人の影。

 

 彼が私の名前を何度も呼ぶ。その度に私の子宮が収縮し、彼が苦しそうな声を上げた。


「けんちっ、ろっ、さんっ」

 私が彼の名前を呼ぶ、その度に彼が大きく脈打ち、私の中を支配した。

 

 何度目かの絶頂の後、彼が果てるとき、私は同時に意識を手放した。

 

 

 

*****

 

「……じょ……ぶ? 大丈夫?」

 彼の声が遠くで聞こえる。うっすら目を開けると彼の残像がぼやけ歪む。それは私がガタガタと震えているからだった。

 

 「うっ」 

 声が出せない。喉が焼けるように熱い。

 

「落ち着いて」

 健一郎さんに抱き締められた。

 

「ううっ」

 頭が割れるように痛く、身体中の全ての血液が脳と視神経に向かって逆流していく。口の中でなにかが動き回っていて言葉を発することができない。口元に手をやると、牙が飛び出しているのが分かった。

 

「落ち着くんだ。大丈夫だから」

 私を抱き締める健一郎さんの腕の力が強まる。

 

  苦しい、苦しいよ、助けて、健一郎さん。その声が出ない。

 

 そのとき、彼が私の後頭部を支え、自分の首元にあてがった。

 

 「そのまま牙を立てろ」

 何を言っているかわからなかった。

 

「大丈夫だから」

 彼が私の背中をさすりながら言う。

 

「深呼吸して。そのまま牙を立てろ。楽になる」

 遠退きそうな意識の中、私はその彼の言葉に素直に従った。未知の世界の中、私には彼だけが全てで、彼に縋ることしかできなかった。

 というより、ただ本能で、血を欲していたのかもしれない。

 

 無我夢中で彼の血を吸っていた……らしい。もう、記憶がなかったから……

 

 気が付くと、身体の苦しみも熱さもなく、ただ、目の前には彼が倒れていて……無意識に口元を拭うと、手がべったりと緋色に染まった。

 

……彼の……血。

 

「キャーーーーッ!」

 何が起こっているか、わからなかった。

 

「……だ、い、じょうぶって、言った、ろ」

 真っ青な顔の彼が私に手を差し伸べた。私は駆け寄り、その彼の手を取った。

 

「健一郎さん! 健一郎さんっ! やだ! 私、何を!」

 どうして彼が倒れているの? 一体何が起きているの? 私は何をしたの? 

 

「……いいんだ。……僕が……そうさせたんだから」

 私の頬を撫でる彼の力が段々と弱まる。

 

「独りにしないで。二人で生きていこうって……永遠に続くって……お願いだから」

 

「……ごめん。君を手放してあげることも、君と一緒に生きていくこともできなかった。僕は弱いから……君に、なれるなら、僕は、幸せだ」

  

 彼は最後の力を振り絞り、目尻に皺を寄せた。

 

 お願い、今、ここで私の大好きな笑顔を向けないで。   

 

 

「……これで……彼女のところに……ありがとう」

 

 

 

 最後にその言葉を残し、彼は消えた。跡形もなく。屍すら残してはくれなかった。

 

 

 私は、ただ茫然と立ち尽くすだけだった。

 

 

 

***** 

 

 こうして私は吸血鬼となった。独りきりの、哀れで滑稽な吸血鬼。

 

 私は今すぐに彼のところに行きたかった。彼以外、何も受け入れたくなかった。誰も襲わなければ飢えで死ぬことができる。でもそれは想像以上に辛かった。

 

 何日も我慢を重ね、最後には「これで彼のところにいける」と考えながら意識を手放すのに、次に目にするのは首から壊死が始まった屍なのだ。そう、今日のように……

 

 珍しい色のスカビオサが風に揺れている。青や紫ではなく、綺麗なスカーレット。まるで、隣に転がっている屍から流れ落ちる血を吸って生き生きと咲いているような、大きくまるっとして少しくすんだ赤色の花。

 

  私はその花を無造作に引きちぎった。血まみれの指に赤い花。私はその花をぼんやりと見つめる。ポタリと落ちるのは屍血なのか花びらなのか。

 


 そして、また私は一人で彷徨う。碧い髪を探しながら。

 

 

 あなたはこうやって一人で生きてきたのね。ずっと一人でこうやって彷徨って耐えてきたのね。

 

 あの最後の言葉は私を絶望の淵に落とした。彼は初めからそのつもりで私を選んだのだ。優しすぎるヴァンパイアはただ弱くてずるい人だった。

 

 それでも、それが、私の生きる本当の意味だったのかもしれない。

 

 スカビオサ花言葉は”I have lost all." ――私は全てを失った。

 

  衝動的に私はその真っ赤な花びらを口にした。むしゃむしゃ貪った。全てを私の中に入れた。私の中に貴方がいる。貴方の孤独も私の孤独も、この私の中にいる。私は貴方を決して一人にしない。

 

 

 でも、でもね……辛いよ。一人は辛いよ、健一郎さん。

 

 

 誰か、誰か私を助けて。


End

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朽ちる身体 Vol.2 -BLUE MOON(薔薇)

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 *****

 

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「大丈夫?」

 

 目黒川沿いにある古いアパート。青い髪の彼が、ドアに背をもたれて仕事帰りの私を待っていた。

 

 私のその問いに答える様子もなく、俯いたままの彼。その長い前髪が顔を隠し、表情が読み取れない。ただ、その下からのぞく頬は血の気がなく、今にも消えていなくなってしまいそうだ。

 

「……冷たい」

 彼の頬に手をあてる。

 

「……暖かい」

 彼が自分の手を添えた。

 

「すぐ開けるから」

 鞄からアパートの鍵を取り出し、ドアを開ける。

 

「……ごめん」

 彼は、立っているのがやっとといった様子で私の肩に頭を預けた。そのまま彼を支えながら部屋に入り、リビングのソファに座らせる。

 

 ソファに沈みこみ、深くため息をつく愛おしい人。

 

「……綺麗だ」

 ふと、彼がローテーブルの上に置いている花瓶を指差した。花瓶に生けていた数本の薔薇。青みがかった薄紫。

 

「珍しい色だね」

 

「BLUE MOONっていうの」

 

「青い月……か。君を見つけた時も今夜と同じ青い月だった」

 

 この薔薇を見て、私と同じことを思い出してくれたのがとても嬉しかった。私が彼に囚われた、あの瞬間の青白い月の光を。そして、今夜の月も同じ光で彼を照らしている。

 

「でもこの薔薇は青というより薄紫だね」

  目尻に皺を寄せてそこまで言うと、彼はまた深く息を吐いた。数回の呼吸とともに肩が上下する。

 

「そんなに辛くなる前に、もっと早く来てくれたらいいのに」

 私は、彼がだらんと力なく膝に投げている腕にそっと触れた。

 

 彼は私の言葉に顔を上げた。そして、そのオリエンタルなアーモンド型の目に宿る艶やかな琥珀色の瞳で、真っ直ぐに私を見る。

 

「……でも、僕のタガが外れて、君を失う訳にはいかない」

 

 確かに、彼が私を食し続けたら、私はすぐに死んでしまうであろう。彼のその言葉は、私を喜ばせ、そして悲しませる。私を大事にすることは、私を欲しないことであるから。

 

 それでも、私は、もっと私を求めてほしかった。最後まで私を貪って欲しかった。

 

  そう、私は彼に見つけてもらって救われたのだ。あの日から、私はもうただの物体ではない。俯瞰から見ている私はもういない。私には血を通わせて生きていく意味がある。「彼の食糧」という大切な存在意義。私が彼の血となり、肉となる悦び。

 

  それなのに……優しすぎる吸血鬼。

 

「私は大丈夫だから」

  そう呟きながら、ブラウスのボタンを何個か外し、露わになった肩を彼の前に差し出した。

 

「……ありがとう」

  彼は、壊れ物を扱うようにそっと柔らかく私の肩に手を置いた。青い髪が私の頬を掠めていく。そして、ゆっくりと首に口をつけ、牙を立てた。

 

  琥珀色だった彼の瞳が、緋色に変わり、妖しく光る。

 

 私は、その鈍い痛みに集中するために、目を閉じた。彼は、味わうようにゆっくりと私の血液を吸っていく。首に感じる彼の唇は柔らかく、徐々に暖かくなり、それに呼応して私の身体は少しずつ温度を失っていく。遠退きそうになる意識で、私はまた、まだ生きているんだと実感するのだ。

 

「……ごめん」

 また謝る彼。その言葉と痛みを感じなくなった私の首が、恍惚の時間の終わりを告げる。彼の瞳はもういつもの奥深い琥珀色だった。

 

 私は無言で首を横に振った。

 

「……冷たくなった」

 彼は私の頬に右手を添え、悲しそうに呟く。

 

「……暖かくなった」

 私は彼の手に自分の手を重ね、笑顔を見せた。

 

 彼の白いシャツから覗く綺麗な彼の鎖骨。その上には細身のゴールドチェーンのクロスペンダント。そのチェーンからクロスにかけてそっと右手でなぞってみる。

 

「あぁ、これ? 魔除け」

  彼は軽く微笑みながら答えた。左手でそのクロスを触るのは、無意識なのであろう、いつもの彼の癖だ。それと同時に少し寂しそうな顔をするのも。

 

「吸血鬼なのに?」

 私はわざと可笑しそうに笑った。

 

「可笑しいよね、吸血鬼にこんなものを」

 彼もクスリと笑った。またクロスを触りながら。

 

「その、『こんなもの』を送ってくれた人は、今どこに?」

 外していたブラウスのボタンをかけながら、努めてさりげなく尋ねる私。彼は一瞬目を大きく見開いたが、すぐにまた微笑に戻った。

 

「あぁ。聞いて楽しいものじゃないよ」

 困ったように笑う彼。

 

「愛してたの?」

 

「そう……なのかな」

 

「死んでしまったの?」

 彼と私たちは寿命が違うから、単純にそう思った。

 

「うん……僕が殺した」

  それは思ってもない答えだった。

 

「殺した? 吸い付くしたの?」

 

「半分正解」

 彼はおどけたように両肩を上げた。

 

「なぜ? そんなに独りになるのが苦手な貴方が?」

 眩暈のするくらい長い間独りでいた彼が一度寄り添ってくれるものを見つけたら、自分から絶対に離すことはないだろう。それは、私を大切に扱ってくれることからも想像するに容易いことだった。

 

 一瞬だけ彼の片眉が上がったかと思うと、すぐに自嘲的な笑みに変わった。

 

「僕が欲望に任せて抱いたからね」

 

「抱いた?」

 

「あぁ。吸血鬼にも性欲というものはあるらしいよ。 それが彼女にどんな末路をもたらすかわかっていたのにね」

 彼の透き通る琥珀色の瞳が濁った。

 

「末路って?」

 

「……僕の体液を受けた彼女の身体は……吸血鬼になった」

 

  吸血鬼になる?

 

「え? 死ぬんじゃなくて? あなたと同じ吸血鬼に?」

 

「あぁ」

 

「じゃ、ずっと、永遠に、あなたと一緒に過ごせるってことじゃないの?」

 私の少し上ずった声がおかしかったのか、彼が不思議そうな顔をした。

 

「そうだね。そのつもりだった。でも……」

 

「でも?」

 

「でも、その永遠が彼女には耐えられなくなったんだ。親や愛していた人が先に死んでいく。自分が生きていくには、誰かを犠牲にしていかなければならない。それは、彼女が想像していたよりもずっと苦痛だった」

 

「それで?」

 

「……死を選んだよ」

 彼が目を伏せる。クロスを触る手が震えた。

 

 彼を独り残して逝くなんて。自分が苦しいと思っていることをずっと耐えて生きている彼を。会ったことのない女性が猛烈に憎かった。

  それと同時に、単純に彼女に嫉妬した。彼に愛され、彼のために死に、彼の心で生き続ける彼女。

 

 いや、それは憧れだったのかもしれない。彼とひとつになれたら彼と同じものになれる……彼を独りにしなくても済む……思いもよらなかった、そんな素敵なこと。

 

 テーブルには大きく咲き零れているBLUE MOON。花言葉は「不可能を可能に」

 

 私はその薔薇を花瓶から一輪を手に取り、自身の左手首にあてがった。

 何をしているのかと、片眉をあげて訝しげに私を見る彼。

 棘のある茎を支え、少し力を入れると手首に鈍い痛みを覚える。声を上げることなくそのまま手前に引くと、血が滲んできた。

 

 彼の瞳と同じ緋色の線が伸びていく。

 

 私はその手をそのまま彼に差し出した。緋色だった雫が空気に触れ色を変え、薄紫の花弁に零れ落ちていく。

  彼は動かず、真紅に染まっていく薔薇をただ見つめているだけだった。

 

「……私を、抱いてくれませんか? 健一郎さん……」

 

 私は貴方を独りにはしない。 

 

End

 

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あなたは悪い人だ

 

 

「もう、今日こそは物申す!」

 

 とある事務所の経理部。何年かただ真面目に勤務してるだけだったのにもうすっかり周りから「お局」呼ばわりされている私。その方が仕事上やり易いところもあり、怒りも否定もせずそのまま呼ばれることにしている。

 

 そして数分前、いつものように領収書の整理をしていると問題の数枚を見つけ、オフィスを飛び出した。

 

 カツカツとヒールを鳴らして向かうは近くのコーヒーショップ。うちの事務所が試験的に出している一号店で、うまくいけばチェーン展開する予定だ。

 

「オーナーは!?」

 勢いにまかせてドアを開けて大声を出したので、お店の中にいたお客様も店員も何事かとこちらを振り返った。

  

「なーに? お客様がびっくりするよぉ♡」

 チョコモーモーのような甘い甘い声。

 

 声がする方を見上げると、店内の出窓から顔を出していたのはここのオーナーの哲也さん。ストレートの柔らかそうな髪。透けるような白い肌が哲也さんをキラキラと輝かせて、そこにチャーミングなホクロがお星様のように点々と広がっている。

 

――はぁ、今日もなんて可愛らしいお姿//// 編み上げのお洋服が中世のお姫様みたい~。ダメですよ~/// 語尾なんて伸ばしちゃって~////

 

「おーい」

  いつも笑っているかのようなかわいらしいアヒル口に両手を添え、窓の桟に肘をついて小首をかしげている美しい塔の上の姫ラプンツェル。もとい、哲也さん。

 

――はっ! ダメダメ! 騙されちゃダメ!

 

「オーナー! これ、なんですか!」

 気を持ち直し、握りしめていた領収書をわなわなと揺らす。

 

「もう、オーナーじゃなくて哲也さんでしょぉ♡ 」

 

――ふゎー、あんなに階段を跳ねて降りてくる36歳のおじさんいる? 綺麗な髪がピョンピョンって!  羽! 羽が見える! やっぱりあなたは天使なの? 天使なのね??////

 

「おーい。どこ見てんのぉ?」
 いつの間にか小首を傾げたエンジェル、もとい哲也さんが私の目の前で手を振っていた。

 

 ――はっ! ダメダメ! 私はお堅いお局様!

 

「コホンッ。オーナーはオーナーです! で、この領収書なんですけども!」

 

「あ、やっと戻ってきたぁ。ここじゃお客様にご迷惑だから、二階に上がってて。おいしいコーヒー入れるからぁ♡」

 哲也さんがくすくすと笑いながら、「どぉぞ」と二階につながる階段に向かって両手を添えて差し出した。

 

 ――うわ、その仕草、何? 何事なの? 女子? 女子でしょ? 手まで白くて綺麗っておかしくない? おかしいよね? はぁ、かわいいわー///// きれいだわーーー/////////

 

「ゴホッ、わ、わかりました」

 平静を装い、わざとヒールの音を立てて階段を上がる。

 

「よいしょっ」

 と低い天井を避けるように身を屈めて中に入れば、そこはコーヒーの妖精さんのお城。落ち着く木目調の壁や床、アンティークのラジカセや扇風機、天井には六芒星の照明。テーブル代わりにはおあつらえの珈琲色のトランクケース。

 

―― はぁぁ、なんて素敵なの、この落ち着く空間♡さすが哲也さん。インテリアのすべてがセンスいい。さすが妖精さん♡♡

 

 窓から下の店内を覗くと、哲也さんがコーヒーをハンドドリップしているところ。ケトルをゆっくりと回しながらドリッパーにお湯を注いでいく。下のビーカーには、琥珀色の綺麗な滴がポタリポタリ。

 

「おいしくなぁれ♡」

 まるでわが子のように愛おしいといった様子で、優しく声をかけていく哲也さん。

 

――あぁ、あの愛されてるコーヒーになりたいっっ!! それかあんな風に優しく触られているビーカーになりたいっっ!!

 

「できましたぁ♡」

 その声に、下のお客さまと私の溜息が同時に漏れる。

 

――もう、いちいち語尾に♡がついてますよー。乙女なんだからぁ。

 

 タップのステップを踏むかのようにリズムよく軽やかに階段を上がる哲也さんに、私は慌てて出窓から離れてトランクケースの前に座り直した。

 

「おまたせぇ。はい、どうぞ♡」

 哲也さんが私にコーヒーカップを手渡したあと、向かいに腰を下ろす。妖精さん用の小さなお部屋に二人きり……距離が、近いです……

 

「……ありがとうございます……いただきます」

 コーヒーショップのロゴが入ったカップをそっと顔に近づけると、鼻腔にスッキリとしたお花のような香りが広がる。口に含むと、ブラックなのにほんのり甘い丸みを帯びた風味が舌をくすぐった。

 

 たった一杯で私に幸せを呼び込むコーヒーの魔法。

 

――哲也さんは、妖精さんじゃなくて魔法使いだった。

 

「ん?」

 哲也さんは、コーヒーを飲んでいる私の反応を確かめるようにこちらを見ていて、私がほっと一息ついたのを確認し、とても暖かい目をこちらに向けて……だから、距離が、近いです……

 

「いえ、何でもありません。……おいしいです……」

 

「でしょぉ。 そりゃ、俺がいれたからね」

 満面の笑みで胸を張り、親指で自分を指差す哲也さん。

 

「で、経理さんの用事はなんだっけ?」

 

――思い出した! くつろいでいる場合じゃない!

 

「そう! この領収書です! 時計20万円って何ですか!?」

 私は領収書をトランクケースに乱暴に置いた。

 

「あ、これ? レジのところに飾ってるの見た? かわいいでしょ。アンティークショップで一目惚れしたのぉ♡」

  

「一目惚れとか言ってんじゃありませんっ! この前だって、ゴミ箱に2万円って! 」

 

「あれねぇ、たっかいのにさぁ、ケンチが蹴ろうとするんだよ。ダメだよねぇ」

 

「『ダメだよねぇ♡』とかかわいい声出してもダメです!」

 

「ぷっ! そんなにかわいかったの? 俺」

 

――確信犯のくせに、こいつはもう!

 

「そ、そんなことどうでもいいんです! コーヒー一杯当たりの利益っていくらか知ってます?」

 

「それは経理さんのお仕事でしょぉ」

 

「オーナーなんだからちゃんと考えてくださいっ! あとこの領収書! コーヒー豆が何でこんなに高いんですか!?」

 

「うーん……いい豆だから?」

 

「『いい豆だから♡?』じゃないんです!商売する気あります? これだと一杯千円取らないと原価割れしですよ?」

 

「それはダメ。お客さんに気軽に美味しいコーヒーを飲んでもらわないと」

 

「だったら! 予算とか原価とかちゃんと計算してください! 夢ばっかり追いかけてもお金は儲かりませんっ! それなりのコーヒー豆でもオーナーの技量でおいしく作れないんですか?」

 

「はぁ? 」

 急に哲也さんの顔つきが変わった。

 

――忘れていた。この人は今でこそこんなに可愛らしくて爽やかなお姫様のようなおじさんだが、若い頃は地元で「バッタ」という名前で幅を利かせていた相当悪い人だったんだ。

 

「ああ、うっせー。豆で妥協するわけないだろ、ったく」 

 いかにも耳障りといった風に、首を傾げ、耳をかく。

 

「もういいよ、それ返せ」

 哲也さんはそう言い投げ、乱暴に私の手から領収書を奪い返した。

 

―― バッタさんです! それ、バッタさんが出てます! こわっ!

 

「ど、どうするんですか、それ」

 

「自腹で払う。なら文句ないだろ? てか文句言うな。本社に関係ない」

 哲也さんがこっちを睨む。

 

――私の頭で血管が切れる音がした。そうブチッと。

 

「そういう問題じゃないの!」

  感情に任せトランクケースを強めに叩いてしまったせいで、カップの中のコーヒー跳ねる。

 

「はぁ?」

 

「オーナーはこの店をここだけで終わらせるつもりですか?」

 

「っんだよ、急に。そんなわけないだろ?」

 

「だったら、うちの社長にこのコーヒーショップが儲かるってことを数字で示さないと!」

 

「だから、俺が自費で払うっつってんだろ?」

 

「違う!!」

 私は声を荒げた。哲也さんが驚いた顔をしたが、もう止まらなかった。

 

「この美味しいコーヒーをもっと大勢の方に飲んでほしくないんですか? 私は飲んでほしいんです! 全国にここの支店を持つのが私の夢なんです。だからオーナーが無理すればいいっていう問題じゃないの! 分かります? ちゃんとビジネスとしてこの1号店を成功させて社長に認めさせないと! そのためには話題性はもちろん収支面でもきちんと結果を残すことが大事なの!」

 

「はぁはぁ」

  一気に捲し立てたせいで、終わったあとに息が上がっていた。

 

「ふぅん。なるほどぉ」

  いつのまにかバッタさんは消えていて、いつもの甘い口調の哲也さん。ニタついた笑顔が気味悪い。

 

「な、何ですか!?」

 

「そんなにこの店が好きなんだぁ?」

 

「……どうでもいいじゃないですか」

 

「ちゃんと答えてよ。そんなに好き?」

 トランクケース越しに、哲也さんの顔がすっと近づいてきた。

 

「そ、そうですよ。だめですか? 哲也さんのセンスとコーヒーへの愛がたくさん詰まったこの店が大好きなんです!」

 

「ふぅん。そんなに俺が好きなんだぁ」

 哲也さんがトランクケースに手をついて、その綺麗な顔がさらに近づいた。

 

「だからそうですって!……って、へっ?」

 

「ふふっ。よくできました」

 哲也さんが私の頭に手を置いて二回……

 

――こ、これが、噂に聞く頭ポンポン !!??

 

「オ、オーナー? ち、近いです」

 

「オーナーじゃなくて哲也さんだって言ってるでしょ? 一人のときはいっつも哲也さんって呼んでるくせにぃ」

 

「ふへっ?」

 

「時々、心の声、漏れてるよぉ。『哲也さんー♡』ってハートマークつきで」

 

「はっ? 嘘……」

 

「気づかなかったのぉ? ふやけた顔と真面目な顔の百面相も?」

 

「えーっと……」

 顔が熱い。くすくすと笑う哲也さんにもう何も言えない。

 

 「今度は真っ赤だよぉ。こんな素直な子には、哲也さんからごほうびあげなくちゃね」

 そういうと哲也さんは、私の頬に手を添えて……

 

 目を閉じて、ゆっくりとこちらに顔が近づいて……

 

――キスされる!

 

「わ、わ、わー!! なになに?何ですか?」

  気づくと咄嗟にその手を振りほどいていた。

 

 ポカンとした哲也さん。

 

――やっちまったな!

――なーにー!?とか言ってる場合じゃないけども!

 

 と思ったら、急に笑いだした。

 「あはははっ。え? なになに? 恥ずかしがっちゃう感じ?」

 

「え、え、ちょ、ちょっと」

 

「かわいいわぁ」

  まだ笑っている哲也さん。

 

「はい、ちょっと落ち着こうか」

 哲也さんは、私の両肩を優しく撫でる。

 

「は、はい」

 もう私は哲也さんのなすがまま。

 

「ちょっと深呼吸する? はい、スー、ハー」

 

スー、ハー。

 

「吸ってぇ」

 

 スー。

 

「はいてぇ」

 

 ハー。

 

「目を閉じてぇ」

 

 ギュッと目を閉じてー

 

「オレならねぇ……」

 

 ん? 急に哲也さんの声がくぐもった。おかしいと思って耳に手をやろうとすると、哲也さんの手がそこにあり…………

 

 何も見えない、何も聞こえない。

 

……そして……唇に感じた柔らかくて甘い感触。何十秒なのか、ほんの一瞬なのか。

 

「へっ?」

 

「へっ? 変な声ぇ。あはははっ」

 目を開けると、お腹を抱えて大爆笑する哲也さん。

 

――わ、わ、私、や、やっぱり哲也さんとせ、せ、せ、接吻!?!??

 

「ふぁわぁあっ! ごぽっkjhgちゅいおkmんbvgty67ういkm!!」

 言葉にならない雄叫びに、いまだに涙を浮かべて笑っている哲也さん。

 

「キスくらいでそんなになって、かわいいぃ♡」

  哲也さんが私の頭を撫でてくれるのは、とても恥ずかしくてとても嬉しいけど、バカにされているのはバカでも分かる。

 

「な、何言ってるんですか! こんなキ、キスくらい! ぜ、ぜ、全然平気ですから!」

 私は哲也さんの胸を押して距離を取った。

  

――嘘っ! 夢にまで見たあの哲也さんとく、く、く、くちづけ!!!

 

「ふーん。なになに? まだ足りない? もっとすごいのがお好み? ガンっていってガツンってやる?」

 

「いやいやいや! オーナー!からかうのはやめてください!」 

 

「からかってないけどねぇ。ふふっ。じゃ、これは?」

  

 後頭部に哲也さんの手が添えられたとき、私の思考回路は完全にショートした。

 

 もう一度哲也さんの顔が近づき、彼の唇が目の前にきたと思ったら、私の唇にまた柔らかい感触。ほんのり、さっきの甘めのコーヒーの味と香り。今度はリップ音が響く。目を閉じることもできず、初めて視覚と聴覚で感じる二回目のキス。

 

――………………

 

「おーい。またどっか行っちゃった。キスでこんなになったらこの先どうなっちゃうんだろうねぇ、俺のお姫様は ♡ 楽しみだなぁ♡」

 

――こ、こ、この先? お、お姫様?

 

 その言葉でやっと意識が戻ってきたとき、手に紙を握らされていることに気づいた。恐る恐る広げると、それは革製品のショップの見積り。

 

 キーリング作成費と書いてあるそれは、どう考えても……桁が1つ多い……

 

「よろしくね、有能な経理さん ♡」

 

「て、哲也さんっ!」

 

「あれ? ここはオーナーじゃないんだぁ」

 

 

 

 ――あなたはほんとに悪い人だ。

 

 

End

 

 

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