朽ちる身体 Vol.4 ―― Silk Jasmine(月橘)

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*****

  

「もうおしまいにしよ?」

 二週間ぶりに抱いた恋人は、ベッドの上で背を向け、下着を身に付けながらさらっと明るい声でそう言った。

 

「何、どうしたの? 俺が何かした?」

 彼女の腰を取り、こちらに引き寄せようとするが、その手を振りほどかれる。

 

「ううん、何も。ただ……私を愛してくれない人と一緒にいるほど暇じゃないから」

 わざとはすっぱな言葉を選んだ彼女。感情を押し殺した声。

 何も言い返せずにいると、彼女は何事もなかったように身支度を整えていった。

 

 コトリ、とテーブルに置かれる部屋の鍵。

 

「じゃ」

 たったそれだけの別れの言葉と、閉まるドアの音。

 

 分かっていた。最後の彼女の声が震えていたことも、今すぐに追いかけて彼女を抱きしめてあげれば元に戻れることも、それが彼女の一縷の望みであることも。

 分かっていて、足が動かなかった。ただ乱れたままのベッドに座っているだけだった。

 

 いつもはうまくやれるのに、今回の彼女には見抜かれてしまった。別れを切り出されるのは初めてだった。それだけ、彼女はちゃんと「俺」を見てくれていたのだろう。

 

――彼女には分かっていたのだ。ボクが人を愛せないということが。


 ボクは誰にも支配されたくなかった。恋人にも家族にも、もしかしたら自分自身、その身体にすら。
 だから、ボクにはいつも現実感がなかった。 心が身体に縛り付けられていない。それは自由なようであり、不安定でもあった。

 その心許なさを埋めたくて恋人を作るが、しばらくして窮屈になり手放す。今まではその繰り返しだった。今回は手放すより先に、その身勝手さを見破られてしまったけど。

 

「はぁ。新作でも考えるか」

 溜息と独り言を部屋に残し、すぐ近くにある自分の店に向かった。

 

 真夜中の湿った空気、アスファルトからぼんやり昇ってくる独特の匂いが、一度雨が降ったことを知らせている。見上げると雨雲は流れたようで、すでに何個かも星が見えていた。

 

 ――今夜も青白い満月が白い花を照らし、甘い香りが立ちこめているであろう。

 

 店の前にディスプレイとして植えているシルクジャスミン。この季節は青々とした葉からたくさんの白い花が咲き零れている。別名は「月橘」(げっきつ)。ジャスミンのような甘い香りが月夜の晩だとより強く香ると言われる花だ。

 

 店に向かう最後の角を曲がると、アスファルトの匂いは消え、想像した通りの爽やかな香りがボクをいざなった。

 

  目に入ったのは、先ほどの雨で濡れそぼつ月橘と、月の光に照らされたボクより少し小さな人影。

 

 艶やかな漆黒の長い髪を一つにまとめ、シンプルで真っ白なワンピースを着ている美しい女性。それが貴女だった。月橘の前に立ち、花の香りを嗅いでいる。店のシェードで雨宿りをしていたのか、身体はあまり濡れていない。それなのに、切れ長の目に乗せられた長い睫だけが濡れていて、なぜ貴女が泣いているのか、それがとても気になった。

 

 

  真っ白な花を手折る、その爪だけが深紅という「色」を放つ。

 

 

 手折った花を持ったまま、貴女はゆっくりとこちらに顔を向けた。ボクを見てなぜか笑顔を浮かべ、近づいてくる。

 

 ボクは貴女に囚われたまま、身動きすることができない。

 

「……見つけた」

 いつの間にか目の前に来ていた貴女。強いジャスミンの香りがボクの鼻腔を刺激する。

 

「このまま朽ちようとも思ったけど……見つけてしまった……アナタを……道連れにしてごめんなさい」

 

  花の香りより甘い声。ボクをまっすぐに見つめる優しい瞳。少し困ったような弱々しい笑顔。透き通るほど白い肌。

 

 視線が下に移動し、ボクの首にある数多のホクロをゆっくりと順番になぞっていく。ボクは貴女のなすがまま。

 

「白くて綺麗な肌……」

 貴女が嬉しそうにそう呟く。そして、鎖骨の上にあるひとつのホクロに手が止まり、綺麗な深紅のネイルで彩られた長い爪がそこに小さな痛みを与えた。

 

 ボクの白い肌から緋色がじわりと滲みでる。

 

 その痛みは初めての感覚で、そう、「快感」と呼べるものだった。ボクの身体はようやくボクの一部となった。

 

 それは、ボクがようやく感じることのできた「生きている証」だったから。

 

  流れる緋色の血が、貴女が持っていた月橘の花に滴り、その純白を深紅に染める。まるで貴女の爪と同化するように。


  ひんやりと冷たい貴女の唇が、鎖骨につけられたその小さな傷にそっと押し付けられたとき、ボクはそっと目を閉じた。


「……これで、やっと朽ちることができる」

 それは、貴女とボク、どちらの言葉だったのか、今はもう思い出すことができない。

 


――これが、ボクが美しくて優しすぎるヴァンパイアに囚われた瞬間。

 


End

 

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***** 

 

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朽ちる身体 Vol.3 ― Scabiosa(スカビオサ)

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*****

 

 月白の光が、驚いた健一郎さんの顔を照らした。その光に照らされた髪は青というより碧く、美しいなぁなんてぼんやり考えていた。

 

「自分が何を言っているか、分かってる?」

 一呼吸の間をおいて、彼が言葉をのせた。

 私はただ頷く。

 

「吸血鬼になるつもり?」

 

 「……はい」

 もう一度頷いた。あなたと同じものになりたいから。

 

 健一郎さんが溜息を一つ、深く吐いた。

 

「元には戻れないんだよ」


「分かってます」

 

「じゃ、何で?」

 

「貴方と生きていたいから」

 私は答えを迷わなかった。

 

「それが永遠に続くんだ。君は、それがどういうことなのかわかってない」

 彼が私を見つめる。その瞳は、突飛なことを言い出した私への驚きと同情と……懇願だった。

 

「ううん、分かってるよ」

 私は彼のこめかみに触れ、その碧い髪に指を絡ませる。

 

「……私には別れを悲しむような人もいない。私は、今まで一人だったの。ううん、一人ですらいなかった。私は生きていなかった。今、貴方のおかげで私は生きているの」

 

 彼は俯いて、私が紡ぐ言葉を聞いていた。私は彼の頭をそのまま引き寄せ、胸に彼を抱く。

 

「……もう一人はいや。貴方を一人にするのもいやなの。これで貴方の孤独を終わらせてあげられる」

 

 彼は目を瞑り、おでこを私の胸に委ねてしばらくそのままにしていた。その重みが心地よくて、私はそのまま彼の髪を撫でていた。

 

「ねえ」

 健一郎さんが私を見上げる。背の高い彼に見上げられるのは初めてのことで、甘えた声と合わさって、なんだかとても彼が可愛らしかった。

 

「ん?」

 

「知ってる? 吸血鬼にも性欲はあるんだ」

 目尻に皺を寄せた、私の大好きな彼の微笑み。

「ふふ。さっき聞いたわ」
 

 自然と体勢が変わり、もう私は彼の下に。今度は彼が私の髪を撫でる。彼が私を見つめる瞳にはもう先ほどの混乱や懇願はなく、あるのはただ濡れかかる妖艶。

 

「ずっとこうしたかったんだ。我慢できなくなるから、なるべく会わないようにしてたのに」

 彼はゆっくりとそう言いながら、私のブラウスのボタンを一番下まで丁寧に外していった。

 

「私がしたかったの」

 わざと軽い言い方をした私に、彼は愛おしそうな視線を向け、頬を撫でる。それがくすぐったくて堪らなかった。

 

「ねぇ、吸血鬼でもキスはできるの?」 

 

「どうだろ、試してみようか?」

 おどけて聞く私に向かって、彼は片方の口角を上げた。そこには牙は見えなかった。便利な牙だな、なんて考えてると、そのまま健一郎さんの顔が近づいてきて、私たちははじめてのキスをした。

 

 食料としてではなく、私自身を求めてくれる彼の舌の動きに、私はすぐに夢中になった。

 

 月夜に照らされ、重なる二人の影。

 

 彼が私の名前を何度も呼ぶ。その度に私の子宮が収縮し、彼が苦しそうな声を上げた。


「けんちっ、ろっ、さんっ」

 私が彼の名前を呼ぶ、その度に彼が大きく脈打ち、私の中を支配した。

 

 何度目かの絶頂の後、彼が果てるとき、私は同時に意識を手放した。

 

 

 

*****

 

「……じょ……ぶ? 大丈夫?」

 彼の声が遠くで聞こえる。うっすら目を開けると彼の残像がぼやけ歪む。それは私がガタガタと震えているからだった。

 

 「うっ」 

 声が出せない。喉が焼けるように熱い。

 

「落ち着いて」

 健一郎さんに抱き締められた。

 

「ううっ」

 頭が割れるように痛く、身体中の全ての血液が脳と視神経に向かって逆流していく。口の中でなにかが動き回っていて言葉を発することができない。口元に手をやると、牙が飛び出しているのが分かった。

 

「落ち着くんだ。大丈夫だから」

 私を抱き締める健一郎さんの腕の力が強まる。

 

  苦しい、苦しいよ、助けて、健一郎さん。その声が出ない。

 

 そのとき、彼が私の後頭部を支え、自分の首元にあてがった。

 

 「そのまま牙を立てろ」

 何を言っているかわからなかった。

 

「大丈夫だから」

 彼が私の背中をさすりながら言う。

 

「深呼吸して。そのまま牙を立てろ。楽になる」

 遠退きそうな意識の中、私はその彼の言葉に素直に従った。未知の世界の中、私には彼だけが全てで、彼に縋ることしかできなかった。

 というより、ただ本能で、血を欲していたのかもしれない。

 

 無我夢中で彼の血を吸っていた……らしい。もう、記憶がなかったから……

 

 気が付くと、身体の苦しみも熱さもなく、ただ、目の前には彼が倒れていて……無意識に口元を拭うと、手がべったりと緋色に染まった。

 

……彼の……血。

 

「キャーーーーッ!」

 何が起こっているか、わからなかった。

 

「……だ、い、じょうぶって、言った、ろ」

 真っ青な顔の彼が私に手を差し伸べた。私は駆け寄り、その彼の手を取った。

 

「健一郎さん! 健一郎さんっ! やだ! 私、何を!」

 どうして彼が倒れているの? 一体何が起きているの? 私は何をしたの? 

 

「……いいんだ。……僕が……そうさせたんだから」

 私の頬を撫でる彼の力が段々と弱まる。

 

「独りにしないで。二人で生きていこうって……永遠に続くって……お願いだから」

 

「……ごめん。君を手放してあげることも、君と一緒に生きていくこともできなかった。僕は弱いから……君に、なれるなら、僕は、幸せだ」

  

 彼は最後の力を振り絞り、目尻に皺を寄せた。

 

 お願い、今、ここで私の大好きな笑顔を向けないで。   

 

 

「……これで……彼女のところに……ありがとう」

 

 

 

 最後にその言葉を残し、彼は消えた。跡形もなく。屍すら残してはくれなかった。

 

 

 私は、ただ茫然と立ち尽くすだけだった。

 

 

 

***** 

 

 こうして私は吸血鬼となった。独りきりの、哀れで滑稽な吸血鬼。

 

 私は今すぐに彼のところに行きたかった。彼以外、何も受け入れたくなかった。誰も襲わなければ飢えで死ぬことができる。でもそれは想像以上に辛かった。

 

 何日も我慢を重ね、最後には「これで彼のところにいける」と考えながら意識を手放すのに、次に目にするのは首から壊死が始まった屍なのだ。そう、今日のように……

 

 珍しい色のスカビオサが風に揺れている。青や紫ではなく、綺麗なスカーレット。まるで、隣に転がっている屍から流れ落ちる血を吸って生き生きと咲いているような、大きくまるっとして少しくすんだ赤色の花。

 

  私はその花を無造作に引きちぎった。血まみれの指に赤い花。私はその花をぼんやりと見つめる。ポタリと落ちるのは屍血なのか花びらなのか。

 


 そして、また私は一人で彷徨う。碧い髪を探しながら。

 

 

 あなたはこうやって一人で生きてきたのね。ずっと一人でこうやって彷徨って耐えてきたのね。

 

 あの最後の言葉は私を絶望の淵に落とした。彼は初めからそのつもりで私を選んだのだ。優しすぎるヴァンパイアはただ弱くてずるい人だった。

 

 それでも、それが、私の生きる本当の意味だったのかもしれない。

 

 スカビオサ花言葉は”I have lost all." ――私は全てを失った。

 

  衝動的に私はその真っ赤な花びらを口にした。むしゃむしゃ貪った。全てを私の中に入れた。私の中に貴方がいる。貴方の孤独も私の孤独も、この私の中にいる。私は貴方を決して一人にしない。

 

 

 でも、でもね……辛いよ。一人は辛いよ、健一郎さん。

 

 

 誰か、誰か私を助けて。


End

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朽ちる身体 Vol.2 -BLUE MOON(薔薇)

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 *****

 

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「大丈夫?」

 

 目黒川沿いにある古いアパート。青い髪の彼が、ドアに背をもたれて仕事帰りの私を待っていた。

 

 私のその問いに答える様子もなく、俯いたままの彼。その長い前髪が顔を隠し、表情が読み取れない。ただ、その下からのぞく頬は血の気がなく、今にも消えていなくなってしまいそうだ。

 

「……冷たい」

 彼の頬に手をあてる。

 

「……暖かい」

 彼が自分の手を添えた。

 

「すぐ開けるから」

 鞄からアパートの鍵を取り出し、ドアを開ける。

 

「……ごめん」

 彼は、立っているのがやっとといった様子で私の肩に頭を預けた。そのまま彼を支えながら部屋に入り、リビングのソファに座らせる。

 

 ソファに沈みこみ、深くため息をつく愛おしい人。

 

「……綺麗だ」

 ふと、彼がローテーブルの上に置いている花瓶を指差した。花瓶に生けていた数本の薔薇。青みがかった薄紫。

 

「珍しい色だね」

 

「BLUE MOONっていうの」

 

「青い月……か。君を見つけた時も今夜と同じ青い月だった」

 

 この薔薇を見て、私と同じことを思い出してくれたのがとても嬉しかった。私が彼に囚われた、あの瞬間の青白い月の光を。そして、今夜の月も同じ光で彼を照らしている。

 

「でもこの薔薇は青というより薄紫だね」

  目尻に皺を寄せてそこまで言うと、彼はまた深く息を吐いた。数回の呼吸とともに肩が上下する。

 

「そんなに辛くなる前に、もっと早く来てくれたらいいのに」

 私は、彼がだらんと力なく膝に投げている腕にそっと触れた。

 

 彼は私の言葉に顔を上げた。そして、そのオリエンタルなアーモンド型の目に宿る艶やかな琥珀色の瞳で、真っ直ぐに私を見る。

 

「……でも、僕のタガが外れて、君を失う訳にはいかない」

 

 確かに、彼が私を食し続けたら、私はすぐに死んでしまうであろう。彼のその言葉は、私を喜ばせ、そして悲しませる。私を大事にすることは、私を欲しないことであるから。

 

 それでも、私は、もっと私を求めてほしかった。最後まで私を貪って欲しかった。

 

  そう、私は彼に見つけてもらって救われたのだ。あの日から、私はもうただの物体ではない。俯瞰から見ている私はもういない。私には血を通わせて生きていく意味がある。「彼の食糧」という大切な存在意義。私が彼の血となり、肉となる悦び。

 

  それなのに……優しすぎる吸血鬼。

 

「私は大丈夫だから」

  そう呟きながら、ブラウスのボタンを何個か外し、露わになった肩を彼の前に差し出した。

 

「……ありがとう」

  彼は、壊れ物を扱うようにそっと柔らかく私の肩に手を置いた。青い髪が私の頬を掠めていく。そして、ゆっくりと首に口をつけ、牙を立てた。

 

  琥珀色だった彼の瞳が、緋色に変わり、妖しく光る。

 

 私は、その鈍い痛みに集中するために、目を閉じた。彼は、味わうようにゆっくりと私の血液を吸っていく。首に感じる彼の唇は柔らかく、徐々に暖かくなり、それに呼応して私の身体は少しずつ温度を失っていく。遠退きそうになる意識で、私はまた、まだ生きているんだと実感するのだ。

 

「……ごめん」

 また謝る彼。その言葉と痛みを感じなくなった私の首が、恍惚の時間の終わりを告げる。彼の瞳はもういつもの奥深い琥珀色だった。

 

 私は無言で首を横に振った。

 

「……冷たくなった」

 彼は私の頬に右手を添え、悲しそうに呟く。

 

「……暖かくなった」

 私は彼の手に自分の手を重ね、笑顔を見せた。

 

 彼の白いシャツから覗く綺麗な彼の鎖骨。その上には細身のゴールドチェーンのクロスペンダント。そのチェーンからクロスにかけてそっと右手でなぞってみる。

 

「あぁ、これ? 魔除け」

  彼は軽く微笑みながら答えた。左手でそのクロスを触るのは、無意識なのであろう、いつもの彼の癖だ。それと同時に少し寂しそうな顔をするのも。

 

「吸血鬼なのに?」

 私はわざと可笑しそうに笑った。

 

「可笑しいよね、吸血鬼にこんなものを」

 彼もクスリと笑った。またクロスを触りながら。

 

「その、『こんなもの』を送ってくれた人は、今どこに?」

 外していたブラウスのボタンをかけながら、努めてさりげなく尋ねる私。彼は一瞬目を大きく見開いたが、すぐにまた微笑に戻った。

 

「あぁ。聞いて楽しいものじゃないよ」

 困ったように笑う彼。

 

「愛してたの?」

 

「そう……なのかな」

 

「死んでしまったの?」

 彼と私たちは寿命が違うから、単純にそう思った。

 

「うん……僕が殺した」

  それは思ってもない答えだった。

 

「殺した? 吸い付くしたの?」

 

「半分正解」

 彼はおどけたように両肩を上げた。

 

「なぜ? そんなに独りになるのが苦手な貴方が?」

 眩暈のするくらい長い間独りでいた彼が一度寄り添ってくれるものを見つけたら、自分から絶対に離すことはないだろう。それは、私を大切に扱ってくれることからも想像するに容易いことだった。

 

 一瞬だけ彼の片眉が上がったかと思うと、すぐに自嘲的な笑みに変わった。

 

「僕が欲望に任せて抱いたからね」

 

「抱いた?」

 

「あぁ。吸血鬼にも性欲というものはあるらしいよ。 それが彼女にどんな末路をもたらすかわかっていたのにね」

 彼の透き通る琥珀色の瞳が濁った。

 

「末路って?」

 

「……僕の体液を受けた彼女の身体は……吸血鬼になった」

 

  吸血鬼になる?

 

「え? 死ぬんじゃなくて? あなたと同じ吸血鬼に?」

 

「あぁ」

 

「じゃ、ずっと、永遠に、あなたと一緒に過ごせるってことじゃないの?」

 私の少し上ずった声がおかしかったのか、彼が不思議そうな顔をした。

 

「そうだね。そのつもりだった。でも……」

 

「でも?」

 

「でも、その永遠が彼女には耐えられなくなったんだ。親や愛していた人が先に死んでいく。自分が生きていくには、誰かを犠牲にしていかなければならない。それは、彼女が想像していたよりもずっと苦痛だった」

 

「それで?」

 

「……死を選んだよ」

 彼が目を伏せる。クロスを触る手が震えた。

 

 彼を独り残して逝くなんて。自分が苦しいと思っていることをずっと耐えて生きている彼を。会ったことのない女性が猛烈に憎かった。

  それと同時に、単純に彼女に嫉妬した。彼に愛され、彼のために死に、彼の心で生き続ける彼女。

 

 いや、それは憧れだったのかもしれない。彼とひとつになれたら彼と同じものになれる……彼を独りにしなくても済む……思いもよらなかった、そんな素敵なこと。

 

 テーブルには大きく咲き零れているBLUE MOON。花言葉は「不可能を可能に」

 

 私はその薔薇を花瓶から一輪を手に取り、自身の左手首にあてがった。

 何をしているのかと、片眉をあげて訝しげに私を見る彼。

 棘のある茎を支え、少し力を入れると手首に鈍い痛みを覚える。声を上げることなくそのまま手前に引くと、血が滲んできた。

 

 彼の瞳と同じ緋色の線が伸びていく。

 

 私はその手をそのまま彼に差し出した。緋色だった雫が空気に触れ色を変え、薄紫の花弁に零れ落ちていく。

  彼は動かず、真紅に染まっていく薔薇をただ見つめているだけだった。

 

「……私を、抱いてくれませんか? 健一郎さん……」

 

 私は貴方を独りにはしない。 

 

End

 

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あなたは悪い人だ

 

 

「もう、今日こそは物申す!」

 

 とある事務所の経理部。何年かただ真面目に勤務してるだけだったのにもうすっかり周りから「お局」呼ばわりされている私。その方が仕事上やり易いところもあり、怒りも否定もせずそのまま呼ばれることにしている。

 

 そして数分前、いつものように領収書の整理をしていると問題の数枚を見つけ、オフィスを飛び出した。

 

 カツカツとヒールを鳴らして向かうは近くのコーヒーショップ。うちの事務所が試験的に出している一号店で、うまくいけばチェーン展開する予定だ。

 

「オーナーは!?」

 勢いにまかせてドアを開けて大声を出したので、お店の中にいたお客様も店員も何事かとこちらを振り返った。

  

「なーに? お客様がびっくりするよぉ♡」

 チョコモーモーのような甘い甘い声。

 

 声がする方を見上げると、店内の出窓から顔を出していたのはここのオーナーの哲也さん。ストレートの柔らかそうな髪。透けるような白い肌が哲也さんをキラキラと輝かせて、そこにチャーミングなホクロがお星様のように点々と広がっている。

 

――はぁ、今日もなんて可愛らしいお姿//// 編み上げのお洋服が中世のお姫様みたい~。ダメですよ~/// 語尾なんて伸ばしちゃって~////

 

「おーい」

  いつも笑っているかのようなかわいらしいアヒル口に両手を添え、窓の桟に肘をついて小首をかしげている美しい塔の上の姫ラプンツェル。もとい、哲也さん。

 

――はっ! ダメダメ! 騙されちゃダメ!

 

「オーナー! これ、なんですか!」

 気を持ち直し、握りしめていた領収書をわなわなと揺らす。

 

「もう、オーナーじゃなくて哲也さんでしょぉ♡ 」

 

――ふゎー、あんなに階段を跳ねて降りてくる36歳のおじさんいる? 綺麗な髪がピョンピョンって!  羽! 羽が見える! やっぱりあなたは天使なの? 天使なのね??////

 

「おーい。どこ見てんのぉ?」
 いつの間にか小首を傾げたエンジェル、もとい哲也さんが私の目の前で手を振っていた。

 

 ――はっ! ダメダメ! 私はお堅いお局様!

 

「コホンッ。オーナーはオーナーです! で、この領収書なんですけども!」

 

「あ、やっと戻ってきたぁ。ここじゃお客様にご迷惑だから、二階に上がってて。おいしいコーヒー入れるからぁ♡」

 哲也さんがくすくすと笑いながら、「どぉぞ」と二階につながる階段に向かって両手を添えて差し出した。

 

 ――うわ、その仕草、何? 何事なの? 女子? 女子でしょ? 手まで白くて綺麗っておかしくない? おかしいよね? はぁ、かわいいわー///// きれいだわーーー/////////

 

「ゴホッ、わ、わかりました」

 平静を装い、わざとヒールの音を立てて階段を上がる。

 

「よいしょっ」

 と低い天井を避けるように身を屈めて中に入れば、そこはコーヒーの妖精さんのお城。落ち着く木目調の壁や床、アンティークのラジカセや扇風機、天井には六芒星の照明。テーブル代わりにはおあつらえの珈琲色のトランクケース。

 

―― はぁぁ、なんて素敵なの、この落ち着く空間♡さすが哲也さん。インテリアのすべてがセンスいい。さすが妖精さん♡♡

 

 窓から下の店内を覗くと、哲也さんがコーヒーをハンドドリップしているところ。ケトルをゆっくりと回しながらドリッパーにお湯を注いでいく。下のビーカーには、琥珀色の綺麗な滴がポタリポタリ。

 

「おいしくなぁれ♡」

 まるでわが子のように愛おしいといった様子で、優しく声をかけていく哲也さん。

 

――あぁ、あの愛されてるコーヒーになりたいっっ!! それかあんな風に優しく触られているビーカーになりたいっっ!!

 

「できましたぁ♡」

 その声に、下のお客さまと私の溜息が同時に漏れる。

 

――もう、いちいち語尾に♡がついてますよー。乙女なんだからぁ。

 

 タップのステップを踏むかのようにリズムよく軽やかに階段を上がる哲也さんに、私は慌てて出窓から離れてトランクケースの前に座り直した。

 

「おまたせぇ。はい、どうぞ♡」

 哲也さんが私にコーヒーカップを手渡したあと、向かいに腰を下ろす。妖精さん用の小さなお部屋に二人きり……距離が、近いです……

 

「……ありがとうございます……いただきます」

 コーヒーショップのロゴが入ったカップをそっと顔に近づけると、鼻腔にスッキリとしたお花のような香りが広がる。口に含むと、ブラックなのにほんのり甘い丸みを帯びた風味が舌をくすぐった。

 

 たった一杯で私に幸せを呼び込むコーヒーの魔法。

 

――哲也さんは、妖精さんじゃなくて魔法使いだった。

 

「ん?」

 哲也さんは、コーヒーを飲んでいる私の反応を確かめるようにこちらを見ていて、私がほっと一息ついたのを確認し、とても暖かい目をこちらに向けて……だから、距離が、近いです……

 

「いえ、何でもありません。……おいしいです……」

 

「でしょぉ。 そりゃ、俺がいれたからね」

 満面の笑みで胸を張り、親指で自分を指差す哲也さん。

 

「で、経理さんの用事はなんだっけ?」

 

――思い出した! くつろいでいる場合じゃない!

 

「そう! この領収書です! 時計20万円って何ですか!?」

 私は領収書をトランクケースに乱暴に置いた。

 

「あ、これ? レジのところに飾ってるの見た? かわいいでしょ。アンティークショップで一目惚れしたのぉ♡」

  

「一目惚れとか言ってんじゃありませんっ! この前だって、ゴミ箱に2万円って! 」

 

「あれねぇ、たっかいのにさぁ、ケンチが蹴ろうとするんだよ。ダメだよねぇ」

 

「『ダメだよねぇ♡』とかかわいい声出してもダメです!」

 

「ぷっ! そんなにかわいかったの? 俺」

 

――確信犯のくせに、こいつはもう!

 

「そ、そんなことどうでもいいんです! コーヒー一杯当たりの利益っていくらか知ってます?」

 

「それは経理さんのお仕事でしょぉ」

 

「オーナーなんだからちゃんと考えてくださいっ! あとこの領収書! コーヒー豆が何でこんなに高いんですか!?」

 

「うーん……いい豆だから?」

 

「『いい豆だから♡?』じゃないんです!商売する気あります? これだと一杯千円取らないと原価割れしですよ?」

 

「それはダメ。お客さんに気軽に美味しいコーヒーを飲んでもらわないと」

 

「だったら! 予算とか原価とかちゃんと計算してください! 夢ばっかり追いかけてもお金は儲かりませんっ! それなりのコーヒー豆でもオーナーの技量でおいしく作れないんですか?」

 

「はぁ? 」

 急に哲也さんの顔つきが変わった。

 

――忘れていた。この人は今でこそこんなに可愛らしくて爽やかなお姫様のようなおじさんだが、若い頃は地元で「バッタ」という名前で幅を利かせていた相当悪い人だったんだ。

 

「ああ、うっせー。豆で妥協するわけないだろ、ったく」 

 いかにも耳障りといった風に、首を傾げ、耳をかく。

 

「もういいよ、それ返せ」

 哲也さんはそう言い投げ、乱暴に私の手から領収書を奪い返した。

 

―― バッタさんです! それ、バッタさんが出てます! こわっ!

 

「ど、どうするんですか、それ」

 

「自腹で払う。なら文句ないだろ? てか文句言うな。本社に関係ない」

 哲也さんがこっちを睨む。

 

――私の頭で血管が切れる音がした。そうブチッと。

 

「そういう問題じゃないの!」

  感情に任せトランクケースを強めに叩いてしまったせいで、カップの中のコーヒー跳ねる。

 

「はぁ?」

 

「オーナーはこの店をここだけで終わらせるつもりですか?」

 

「っんだよ、急に。そんなわけないだろ?」

 

「だったら、うちの社長にこのコーヒーショップが儲かるってことを数字で示さないと!」

 

「だから、俺が自費で払うっつってんだろ?」

 

「違う!!」

 私は声を荒げた。哲也さんが驚いた顔をしたが、もう止まらなかった。

 

「この美味しいコーヒーをもっと大勢の方に飲んでほしくないんですか? 私は飲んでほしいんです! 全国にここの支店を持つのが私の夢なんです。だからオーナーが無理すればいいっていう問題じゃないの! 分かります? ちゃんとビジネスとしてこの1号店を成功させて社長に認めさせないと! そのためには話題性はもちろん収支面でもきちんと結果を残すことが大事なの!」

 

「はぁはぁ」

  一気に捲し立てたせいで、終わったあとに息が上がっていた。

 

「ふぅん。なるほどぉ」

  いつのまにかバッタさんは消えていて、いつもの甘い口調の哲也さん。ニタついた笑顔が気味悪い。

 

「な、何ですか!?」

 

「そんなにこの店が好きなんだぁ?」

 

「……どうでもいいじゃないですか」

 

「ちゃんと答えてよ。そんなに好き?」

 トランクケース越しに、哲也さんの顔がすっと近づいてきた。

 

「そ、そうですよ。だめですか? 哲也さんのセンスとコーヒーへの愛がたくさん詰まったこの店が大好きなんです!」

 

「ふぅん。そんなに俺が好きなんだぁ」

 哲也さんがトランクケースに手をついて、その綺麗な顔がさらに近づいた。

 

「だからそうですって!……って、へっ?」

 

「ふふっ。よくできました」

 哲也さんが私の頭に手を置いて二回……

 

――こ、これが、噂に聞く頭ポンポン !!??

 

「オ、オーナー? ち、近いです」

 

「オーナーじゃなくて哲也さんだって言ってるでしょ? 一人のときはいっつも哲也さんって呼んでるくせにぃ」

 

「ふへっ?」

 

「時々、心の声、漏れてるよぉ。『哲也さんー♡』ってハートマークつきで」

 

「はっ? 嘘……」

 

「気づかなかったのぉ? ふやけた顔と真面目な顔の百面相も?」

 

「えーっと……」

 顔が熱い。くすくすと笑う哲也さんにもう何も言えない。

 

 「今度は真っ赤だよぉ。こんな素直な子には、哲也さんからごほうびあげなくちゃね」

 そういうと哲也さんは、私の頬に手を添えて……

 

 目を閉じて、ゆっくりとこちらに顔が近づいて……

 

――キスされる!

 

「わ、わ、わー!! なになに?何ですか?」

  気づくと咄嗟にその手を振りほどいていた。

 

 ポカンとした哲也さん。

 

――やっちまったな!

――なーにー!?とか言ってる場合じゃないけども!

 

 と思ったら、急に笑いだした。

 「あはははっ。え? なになに? 恥ずかしがっちゃう感じ?」

 

「え、え、ちょ、ちょっと」

 

「かわいいわぁ」

  まだ笑っている哲也さん。

 

「はい、ちょっと落ち着こうか」

 哲也さんは、私の両肩を優しく撫でる。

 

「は、はい」

 もう私は哲也さんのなすがまま。

 

「ちょっと深呼吸する? はい、スー、ハー」

 

スー、ハー。

 

「吸ってぇ」

 

 スー。

 

「はいてぇ」

 

 ハー。

 

「目を閉じてぇ」

 

 ギュッと目を閉じてー

 

「オレならねぇ……」

 

 ん? 急に哲也さんの声がくぐもった。おかしいと思って耳に手をやろうとすると、哲也さんの手がそこにあり…………

 

 何も見えない、何も聞こえない。

 

……そして……唇に感じた柔らかくて甘い感触。何十秒なのか、ほんの一瞬なのか。

 

「へっ?」

 

「へっ? 変な声ぇ。あはははっ」

 目を開けると、お腹を抱えて大爆笑する哲也さん。

 

――わ、わ、私、や、やっぱり哲也さんとせ、せ、せ、接吻!?!??

 

「ふぁわぁあっ! ごぽっkjhgちゅいおkmんbvgty67ういkm!!」

 言葉にならない雄叫びに、いまだに涙を浮かべて笑っている哲也さん。

 

「キスくらいでそんなになって、かわいいぃ♡」

  哲也さんが私の頭を撫でてくれるのは、とても恥ずかしくてとても嬉しいけど、バカにされているのはバカでも分かる。

 

「な、何言ってるんですか! こんなキ、キスくらい! ぜ、ぜ、全然平気ですから!」

 私は哲也さんの胸を押して距離を取った。

  

――嘘っ! 夢にまで見たあの哲也さんとく、く、く、くちづけ!!!

 

「ふーん。なになに? まだ足りない? もっとすごいのがお好み? ガンっていってガツンってやる?」

 

「いやいやいや! オーナー!からかうのはやめてください!」 

 

「からかってないけどねぇ。ふふっ。じゃ、これは?」

  

 後頭部に哲也さんの手が添えられたとき、私の思考回路は完全にショートした。

 

 もう一度哲也さんの顔が近づき、彼の唇が目の前にきたと思ったら、私の唇にまた柔らかい感触。ほんのり、さっきの甘めのコーヒーの味と香り。今度はリップ音が響く。目を閉じることもできず、初めて視覚と聴覚で感じる二回目のキス。

 

――………………

 

「おーい。またどっか行っちゃった。キスでこんなになったらこの先どうなっちゃうんだろうねぇ、俺のお姫様は ♡ 楽しみだなぁ♡」

 

――こ、こ、この先? お、お姫様?

 

 その言葉でやっと意識が戻ってきたとき、手に紙を握らされていることに気づいた。恐る恐る広げると、それは革製品のショップの見積り。

 

 キーリング作成費と書いてあるそれは、どう考えても……桁が1つ多い……

 

「よろしくね、有能な経理さん ♡」

 

「て、哲也さんっ!」

 

「あれ? ここはオーナーじゃないんだぁ」

 

 

 

 ――あなたはほんとに悪い人だ。

 

 

End

 

 

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Summer Lover

 籍だけを入れて式を挙げなかった私たちのために、仲間が開いてくれたサプライズパーティー。プライベートビーチを持つ小さなホテルを貸し切って、なんて豪華なことをいっても、みんなが揃えばただの飲み会になるわけで。夜通しの喧騒のあと、各々の部屋に戻った頃には、太陽が水平線からすっかり顔を出していた。


アルコールでぼんやりとした意識のまま、何気に部屋の窓から外を眺めると、砂浜に座っている人影がひとつ。



「ここにいたの?」

 ビーチに出た私は、海を眺めている啓司の後ろから声をかけた。

「ん」

 啓司は振り返らずに小さく返事をしたあと、立ち上がって服についた砂を払う。

「みんなは?」

「あれだけ飲めば……ねえ」

 私が啓司の問いかけに苦笑すると、彼はただ片方の口角を上げてそれに答えた。

「いいパーティーだったな」

 水平線を見つめたままの啓司。

「うん。こんなにお祝いしてくれて、みんな、自分のことのように喜んでくれて」

「ん」

「ネスさんなんてずっと泣いてたよね?」

「ああ、あいつはバカだから。泣きすぎ」

 啓司がヘラヘラと笑う。あなたはネスさんが好きすぎる。

「まあ、俺たちのこと全部知ってて、一番心配してたの、あいつだからな」

「私たちがケンカする度にオロオロして、間に入ってくれたりしてね」
 
 啓司は、あの頃を思い出したように歯を出してニタッと笑った。

「お前、気が強すぎなんだよ」

「啓司が他の女と遊ぶからじゃん」

「はは、確かに」 

「……認めた。珍しい」

 啓司は「何だよ?」といった風に片方の眉を上げてこちらを見た。まるで、誘惑の白き悪魔のように。

「……いえ、何でもありません……」

 私がいつものように怖じ気づいた振りをしてそう言うと、今度は「よろしい」といった風に首を縦に振り、私の頭をポンポンと軽く叩いた。



 ああ、私、やっぱりこの手が好きだ。このでかい図体!?に似合わない子どものような手が。見なくても分かる。分厚い掌と短めの指に平たい爪。



「……お前をこの海でぶん投げたこともあるなぁ」

 右手で顎をさすりながら想い出話を始めた啓司。

「ほんと、あれはひどかった! 髪も顔もぐちゃぐちゃだし、着替えも持ってなかったし! 」

「ふははっ! お前の顔、ほんとに酷かったわぁ。この世のものとは思えなかったもん。まぁそのあと、ボコボコに殴られたけどな」

「だって、啓司が悪いんじゃん!」

「でも、あのときのお前、かわいかったんだよなぁ」

 啓司が横目で私を見ながらニタニタと笑っている。きっとその後のことを思い出しているのだろう。

「……おっさん、ヘラヘラしすぎ」

 何だか無性に恥ずかしくなって、私は悪態をついた。



――波が真っ白な貝殻を残していく。あの夏のように――



 今でも鮮明に覚えている。びしょ濡れになった私たちは、無性に可笑しくなって、ケタケタと笑い合った。そして、そのまま抱き合ってキスしたこと。

 この海で迎えた彼との初めての夏。彼が白いシャツを脱いだら鍛えられた筋肉たちで象られた美しい裸が現れ、私は改めてその小麦色の魔法にかかった。

 夜のビーチで、そのまま朝までホテルの部屋で、何度も何度もお互いを求めあった。二人の未来はこれからも永遠に続いていくと感じられた、あの大切な夏。



 ふと啓司を見ると、あのときと変わらず、ヘーゼルの瞳がこちらに向けられていた。また彼の片方の口角が上がる。啓司も同じ事を思い出してくれているだろうか。



「……楽しかったよな」

 そしてまたニターっと少年のように笑った啓司は、そのまま海に向かって歩き始めた。

「ははっ、まだ冷めてぇ!」

 笑いながらパシャパシャと水面を蹴り上げる姿は、昔からよく見た光景。無邪気なその仕草は啓司らしくて、つい笑みが溢れる。



「なあ?」

 ふと、足の動きを止めた啓司。

「ん?」

「……ちゃんと言ってなかったわ」

「何を?」

 少しの沈黙。真面目なことを言おうとするときの彼の癖。














「……結婚おめでとう。アキラに幸せにしてもらえよ」

 太陽に照らされる啓司の影。俯く彼の横顔は逆光になっていて、その表情は読み取れない。



「……うん……ありがとう」



 あの夏、確かに私の恋人だった啓司。彼が私を捨てたのか、私が彼を捨てたのか。



End

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BlueなSky

 

 まだ柔らかさの残る青の空、ようやく暖かくなってきた芝生の上、さわさわとそよぐ心地よい風、無邪気に遊ぶ子どもたちの声、向こうの方でバーベキューを楽しむ大人たち。


「ヤバッ! ねえちゃんのおにぎり、うめっ!」

「もう、おおげさだよ。ただのおにぎりだって」

 鮭のおにぎりを口一杯に頬張る将ちゃんを見て、つい吹き出してしまう。

 

 

 昨日、急に将ちゃんからLINEが入った。

【明日、そっちに帰るからねえちゃんと公園行きたい! お弁当たくさん作ってー😃✌】

 これが、30も過ぎた立派な男――しかも見た目は厳つくて泣く子も黙る目力を持ったいかにもパリピな男性――の書くメッセージだろうか。

 そんなことを思いつつ、すぐに買い出しに行き、朝早く起きて鼻歌とともにこの大量のお弁当を作った私も私だけど。

 それもほんの少し、ホントにほんの少し、将ちゃんよりも年上の……

 

 

 そして今、将ちゃんはあっという間におにぎりを二つお腹に入れ、今度はザンギを一気に口に入れてもごもごしてる。

 

「これもうっめっ! やっぱねえちゃんのザンギ最高!」

 いつ見ても食べる量とスピードは圧巻だ。前に『将ちゃんは掃除機のようにご飯を食べるね』と呆れて言うと、将ちゃんは『それヤバい、おもしろっ』と笑った事がある。

 

「もう、食べるかしゃべるかどっちかにしたら?」

 決してお行儀の良いとはいえない将ちゃんの食べ方が、私は大好きだ。

 

「だって、ねえちゃんの作るもの何でもホントにうまいんだもん!」

 将ちゃんは、口の中が空にならないうちに次のザンギをまた放り込んだ。

 

「やっぱ、ねえちゃんの飯食うと元気出るわー。毎日食べたい!」

 そんなふにゃふにゃな笑顔で、出来もしない事を言わないでほしい。つい、笑っていた口元が歪んでしまうから。

 

「ん? ねえちゃん、どうした?」

 鈍感なのか、敏感なのか……

 

「もう、将ちゃんったら。毎日飛行機で帰ってくるわけにはいかないでしょ?」

  私は努めて明るく返すと、将ちゃんは肩を落とし、 

「そっか、ごめん」

 と、目力もなく眉根も下げて明らかにしょげた顔。

 

「ほら、将ちゃん、ご飯つぶがついてる」

 私は笑ってごまかした。すると将ちゃんは、

「え、どこ?」

 と言いながら顎を私の方に差し出すから、唇の下の髭に引っ掛かっているご飯つぶを取ってあげると、将ちゃんはまた無邪気なニコニコ笑顔に戻った。

 と思ったら、今度はポテトサラダがまた将ちゃんの口にどんどんと吸い込まれていく。

 

 ここまではいつもの光景。少し物足りないけど、いつもの幸せなひととき。

 

「ごちそうさま!」

 最後だけはきちんと両手を合わせた将ちゃん。多目にと思って作ったのに、お弁当箱は全て空っぽ。どこにあれだけの量のご飯が入るのだろう……。まあ、すぐにトレーニングで消化されてしまうのだろうけど。


「はぁ、満足ー!! 眠てーー!!」

 言い終わらないうちに、将ちゃんがごろんと寝転がり、あっという間に将ちゃんの頭が私の膝の上に。

 

  胸の上で両手を組んで指でリズムを取りながら鼻歌を歌っている将ちゃんがあまりに近過ぎて眩しくて、つい視線を反らして右手で顔を隠した。


「……ねえ、そんなに嫌だった?」

 将ちゃんが心配そうにそう尋ね、私の手首をつかんで顔から外そうとする。そんなことを言われると、首を横に振るしかなくて。


「ほんと? じゃ、照れてんの? ……顔、真っ赤だよ?」

 分かってるなら、そんな追い打ちをかけないで欲しい。やっぱり首を横に振るしかなくて。


「ヤバい……」

 口を手で覆う将ちゃん。

 

「……ねえちゃんがかわいい」

 ……だから、本当にそういうのはやめてほしい。

 

「ねえちゃんをからかわないでよ」

 顔が熱くてしょうがなくて、手のひらでパタパタと顔を仰ぐと、将ちゃんは目尻に皺を寄せてニカーッと顔を崩した。そして、また始まる将ちゃんの鼻歌。

 
「ねえちゃん、空、見て」

 将ちゃんがそう言って天を指差すから、つられて私も上を向いた。
 
♪ Look up Blue Blue なSky, Sky~♪

 将ちゃんが口ずさみはじめたメロディ。空の青を隠す白い綿あめは一つもない。元気よい青葉から零れる陽の光。

 

♪いつだって You are beautiful  ~♪

 綺麗な歌声。ただ歌うのが好きで、それだけを貫いて歌い続けてきた将ちゃんの声は、混じりっ気が何もなく純粋で透明で、立場とか年齢とか距離とかで縛られている私の心を全てほぐして、優しく包み込んでくれる。

 

♪今を、そして君を、誰より愛せるさ~♪

 

――自分の意志とは関係なく流れていく涙――

 

 それに気付いた将ちゃんが、慌てて身体を起こした。

 

「わっ、ねえちゃん! 何で泣くの? 俺、悪いことした? 何か嫌な事、思い出させた? なに、なに?」

 将ちゃんが私の顔を覗き込みながら、キョロキョロしたり、ジーパンのポケットに手を突っ込んで何かを探したり、絵にかいたようにあたふたしている。将ちゃんがハンカチやティッシュを持ち歩くはずなんてないでしょ、もう。


「ねえちゃん、泣かないで。ほら」

 結局、自分のTシャツの裾をまくり、私の濡れた頬を拭こうとする将ちゃんらしい優しさに、私は泣きながらも自然に頬が緩み、小さく

「ありがとう」

 と呟いた。

 

   私の顔を見た将ちゃんは安心したような笑顔を見せ、両手を宙に浮かせたが――多分私を抱き締めてくれようとしたのだろう――小さくため息をつきながらそれを一旦下ろし、今度は私の肩にのせた。

 

「わーっ、やっぱできねーや!」

 急に大きな声をだすから、こっちがビクッとなる。


「えっ、えっ? 何が?」

 

「うーんっ、あのね……啓司さんがさ、好きな女なら愛しているって囁いてキスの一つでもしろよって言うんだけどさ。俺、哲也さんみたいにロマンチックな台詞なんて思いつかないし、恥ずかしいし、ぜってー無理だわ」

 将ちゃんは、そう言っている間も照れ笑いを浮かべながらずっとこめかみをかいている。

 

……私はもう吹き出すしかなくて。

 

「ふふっ。ふふふっ」

 

「え、なんで笑うの?」

 急に声に出して笑う私を見て、将ちゃんの頭にハテナが浮かんでいる。
 
「だって、将ちゃん、さっきまであんなにロマンチックな歌を歌ってたじゃん」


「あっ……」

 さっきまで歌っていた自分を思い浮かべる将ちゃん。

 

「……だって歌は別だから」

 はにかむ笑顔はまるで十代の無垢な少年。

 

「ふふふっ」

 180cmの筋骨粒々な可愛らしい少年に、私はまた笑みを溢した。

 

「ま、ねえちゃんが笑ってくれるならいっか!」
  将ちゃんがまた寝転び、私の膝はまた枕がわり。

 

♪そう、ただ笑ってくれるだけで、Yeah 満たされてく♪

 将ちゃんがまた口ずさむメロディ。空の青を隠す白い綿あめは一つもない。元気よい青葉から零れる陽の光。

 

 微笑み合う私たち。

 

  歌うことでしか素直な愛をくれないキミに、今度は私からキスをあげよう。

 

End

 

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頭痛が痛い

 

 おでこに冷たいものを感じて目が覚めた。身体が熱くて息が苦しい。ここはどこだ? ああ、マンションで寝ているのか……

 

「ごめん、起こした? 冷た過ぎる?」

 昔から聞き慣れた、女性にしては低めの声。冷却シートが苦手な俺のために、おでこにあてがわれたのは濡れタオル。

 思い出した。金曜に珍しく風邪を引いた俺は、高熱で朦朧としながらも何とか仕事を終え、帰りの車の中でこいつを呼んだんだった。

 

「……ん、気持ちいい」

 

「ふふっ、何、その声。ガラガラッ」

 病人に向かって笑うなんていい根性だ。

 

「うるさい。バカ。ゴホッ」

 悪態を付いてみるが、確かに喉が痛くてカスカスの声しか出ない。

 

「ほら、丸一日は寝てたんだから、無理にしゃべらない方がいいよ。それに、彼女でもないのにわざわざ看病に来ている優しい友人に向かって、バカとは何よ、バカとは」

 こいつはいつもそうだ。こうやって、口答えしながらも優しく微笑んで、熱くなった俺の首にその冷たい手を優しく添え、熱を奪ってくれる。

 

「気持ちいい?」

 

「…ん」

 

「何か食べられそう?」

 

「……リンゴ、すって……」

 俺もいつもそうだ。こいつの前でだけ弱い俺を見せられる。

 

「はいはい。食べたいだろうと思って買っておきましたよ、け、い、たんっ♪」

 『けいたん』にわざとハートマークをつけて呼んだこいつは、嬉しそうにキッチンに向かった。

 

 頭はまだガンガンするし喉も痛いしで、『お前はオカンか』という言葉は一旦飲み込んだ。それに、俺が風邪だと知って、お粥とかじゃなくリンゴを買ってきてくれるのはこいつぐらいだ。

 

「ほら、起きられる?」

 キッチンから戻ってきたこいつの手には、すったリンゴを入れたボウルとスプーンを載せたトレイ。

 

「……ん。ありがと」

 

「どうぞ、け、い、たん♪」

 起き上がった俺の前にトレーを置いたこいつ。いちいち嬉しそうだな。そう思うと、スプーンを俺に差し出したこいつをからかいたくなった。

 

「は? 食べさせてくれるんじゃないの?  ほら」

 スプーンを受け取ろうとせず、こいつに向かって口をアーンと開けると、悪態をついていた彼女の顔が急に赤くなる。

 

「え? 何やってるのよ、37にもなって」

 

「37は余計。俺、病人な。ゴホッ。病気に年齢関係ないし。ゴホッ。ほら、アーン」

 

「な、何よ。わざと咳き込んじゃって」

 お、なかなか反応が面白い。

 

「ああ、喉乾いた。ゴホッ。早く食べて寝たい。ゴホッ」

 

「もう、分かったわよ。ほら」

  観念したのか、顔が赤いままぶっきらぼうに俺の口にリンゴを入れるこいつがかわいく思えたり。

はむっ。

「おいしい?」

 

はむっ。コクリと頷く。

「そう、よかった」

 

はむっ。

「大体、何でこういう時は私を呼ぶのよ? 看病なら喜んでやってくれる女の子がいくらでもいるでしょうに」

 

はむっ。

「いないいない。いたらお前なんか呼ばないし」

 

「お前なんか、とは何よ。ひどいな、それ。モデルの彼女は?」

 笑いながら聞く彼女。

 

はむっ。

「は、あいつが看病なんかするタマか。それにあのきっつい香水の匂いで、余計に頭痛が痛くなる」

 こいつには触れてほしくない彼女のことを持ち出され、ムッとして答えると、意外にもきょとんとした顔が返ってきた。ん? なんだ?

 

「あははっ」

  急に爆笑する彼女。

 

「そのきっつい香水の女を選んだのは啓司じゃん。それに頭痛が痛いって。あははっ」

 

はむっ。
「うるさいよ。黙れって」

 俺の口にリンゴを運びながらも、目に涙を浮かべて大笑いするこいつに、無性に腹が立ってきた。

 

「さすが啓司、期待を裏切らないわぁ。頭痛が痛いっ、あはは」

 まだ笑ってやがる。

 

「黙らないと、そのデカ口、塞ぐぞ」

 目の前のスプーンを差し出すこいつの手をおもむろに掴み、自分の方に引き寄せる。

 逃げられないようにこいつの後頭部を手で支え、おでこと鼻をこいつのそれに当てた。

 

 触れ合いそうになる唇と唇。キスまであと数センチ。

 

 

「……啓司の瞳の色が好きよ」

 

 

 驚くこともなく、かといって目を閉じて俺の戯言に乗る訳でもなく、余裕ありそうな笑みを浮かべて、こいつはそう呟いた。

 

「どうしたのよ、珍しく甘えちゃって」

 こいつには勝てない。全部お見通しだ。

 今度は、こいつが俺の後頭部に手を添えて、自分の肩に誘導する。 背中をトントンとするリズムが気持ちいい。

 

「お前はオカンか」

 

「オカンと思って、話してみれば?」

 トン、トン。


「……仕事……やらかしちまった」

 

「金曜日?」

 トン、トン。

 

「……ああ、命かけてここまでやってきたのに……たった一日で壊しちゃった。怒ってる客もいるだろうな。熱で覚えてないなんて言い訳にもならないし。メンバーにも迷惑かけて。体調管理もできないなんて情けね」

 

「そうね、プロ失格ね」

 トン、トン。

 

「……おい、そこは慰めろよ」

 

「ふふっ。だってその通りだもの。自分でも十分に分かっているから、そうやって落ち込んでるんでしょ」

 トン、トン。

 

「でも、これで終わりにしないわよね?」

  

「……ああ」

 トン、トン。

 

「まだ、夢を叶えてないものね? 啓司はバカだけど、やるといったらやり遂げる男よね?」

 

 「……バカは余計だ、バカ」

 

「ふふっ。NINE WORLDだっけ、あのプロジェクトもこれからまだまだ続くんでしょ?」

 トン、トン。

 

 慰めるわけでも叱咤激励するわけでもない、こいつの淡々とした口調に、落ち込んでいるのがバカらしくなった。

 

「……ああ」

 

「じゃ、早く治らないとね。頭痛が痛かったら満足なパフォーマンス出ないものね? ふふっ」

  自分で言って笑いを堪えきれないこいつ。


「……なあ、それ、何でそんなにおかしいんだ?」 

 俺の素朴な疑問に、またキョトン顔。

 

「あー、もう、やっぱり啓司だわ。さすが小2で本を読むのをやめただけある。まだ熱もあるみたいだし、しょうがないか」

 妙に感心しながら、俺のおでこに手を当てて熱を測る。

 

「うっさい。もう、いい。寝る」

 ふてくされてベッドに身を沈めた。

 

「うん、明日は仕事でしょ? 熱、下がるといいね」

 

 このとき、俺は何を考えていたのだろうか。寝ている俺に布団をかけてくれようとするこいつの右手をとっさに掴んでいた。

 

「ん? どうした?」

 

「……帰るなよ」

 

「大丈夫よ。病人を一人にしないって」

 左手で俺の手を握り返し、そっと布団の中に入れる。そして、ベッドの横に座り、また右手を俺の首にそっと添えた。やっぱりひんやりとして気持ちいい。

 

「……どこにもいくな。ずっとここにいろよ」

 

「はいはい。啓司はこう見えて淋しがり屋だもんね。寝るまではここにいるって」

 鈍感な奴、俺の言っている意味が分かってない。それともわざとか。

 

「……そうじゃない」

 

「ん?」

 

「いや、なんでもない。……おやすみ」

 まあ、いい。今は何も考えなくていい、とにかくこいつの隣で寝てればいい。俺はそっと目を閉じた。

 

 

――ぼんやりとした頭の向こうの方でこいつの声がする。

 

「髪の毛ふわふわ」

 俺の髪を優しくなでる手。

 

「じっとしていられないのは啓司でしょうに……」

 髪を撫でる手は止まらず、少し寂しそうな声を出す。

 

 ああ、やっぱりさっきキスしておけばよかった。ぼんやりそんなことを思いながら、俺は意識を手放した。

 


*****

 

 目が覚めると、夜が明けていた。嘘のように身体が軽い。ベッドから起き上がる。あいつはもういなかった。まあ、そんな予感はしていた。

 

「ふわーっ、腹減った!」

 大きく背伸びをして、まぬけな独り言を言いながら寝室を出ると、ダイニングテーブルには俺の好きな果物が置いてあり、その脇には紙切れ1枚に見覚えのある文字。

 

『頭痛が痛いのは治った?(笑)

 

 

 思う存分動き回れば? 啓司がそこら辺でのたれ死んだときは、骨を拾ってあげるから』

 

 書いてある生意気な言葉には似つかわしくない、可愛らしいあいつの文字。

 

「バカか、勝手に殺すなよ」

 ついひとりごちた。

「あ、頭痛が痛い。そゆこと?」

 バカなのは俺か。文字を見て、やっとあいつが昨日笑っていた意味を理解する。

「うっせー、バーカッ」

 こめかみをかきながら、いない奴に向かって悪態をついた。 

 

 スマホを探すと、リビングのテーブルの上でちゃんと充電されていた。

 LINEを開くと、あいつがメンバーに『2日間休む』と連絡を入れてくれている。その下には、メンバーからの体調を心配するメッセージが並んでいた。てっちゃんのコーヒーが恋しい。 

 モデルの女からは『今度はいつ会えるの?』という催促。とりあえず、既読スルー。

 そして、プロジェクトのスタッフから今日の打ち合わせの時間と場所の連絡。やっぱり、止まっている暇はなさそうだ。

 

「おっしゃ!また働くか!」

 両頬を叩き大きな音を立てて気合を入れた後、あいつの用意したイチゴを頬張った。

 

「ヤバッ、うっめ!」

 

――これからまた、いつもの日常が始まる。

 

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