My Boy Vol.3 ―― Keiji.K
*****
「つかさ、どした?」
ドアノブに手をかけたとき、反対を握っていた小さな手の力が強まった。文字通り、"ギュッ” と。
――朝、芸能人の俺を迎えに来たのはマネージャー。見たこともない子どもが俺の隣に並んでいたら、そりゃびっくりもするだろう。ワーワーとうるさいやつに『あとで説明する』とだけ言い、迎えの車に乗り込んだ。
事務所につくと、マネージャーに由布のことを調べてくれるように頼んで別れ、俺ら二人は今、控え室のドアの前。
「もしかして、怖い? 」
不安そうに俺を見上げるつかさの頭をポンポンと叩く。
「怖くなんか、ない、もん」
「ふっ、大丈夫だって」
腰を下ろし、つかさと目線を合わせる。
「中にいる奴らは、俺の仲間。ちょっとゴツいけど、みんないい奴だから、な」
小さく、コクンと頷いて応えるつかさ。
「ほら、笑えよ」
ほっぺをプニッとつねってやると、『いひゃい』とか言うかわいい奴。
「よし、行くぞ」
そのまま手をつないで、勢いよくドアを開けた。
「はよーっ」
そこには、いかにも『いかつい』男どもが、すでに5人とも勢揃い。
「啓司、遅刻だよ……でさ、あそこのステップの……って、ん??」
青い髪を揺らし笑顔で俺をたしなめたのは、このグループのリーダー、ケンチ。中断していたアキラとの会話を続けようとしたが、小さな珍客に気づき、こっちを二度見した。なに、その顔(笑)。
「なに、なに、その子、どこの子?」
ケンチと同じタイミングでつかさに気づいたアキラ。こちらに近寄り、つかさの前でしゃがみこみ、頭を撫でた。
後ろでは、ネスミスと将吉がこちらをじっと見ている。ネス、目を丸くした顔がバカっぽい。将吉、目力が強すぎて怖い。
ソファで優雅にコーヒーを飲んでいる哲也が、いつものように甘ったるい声を出した。
「啓司の隠し子だったりして~」
ブッ! こいつ、相変わらず鋭い!
「……そう……らしい」
頭をかきながらそう答えた。
「えっ?」
哲也が聞き返した後、しばしの沈黙。そして……
「「「「「はーーーーっ!?? 」」」」」
全員が一斉に奇声を発した。
「け、啓司くん?」
「啓司さん! いつの間に!?」
「ヤバいっす、ヤバいっすよ、啓司さんっ!!」
慌てて詰め寄ってくるアキラ、ネス、将吉。
あまりの勢いに、つかさがびっくりして俺の後ろに隠れた。
「け、けいじくん……」
「待て、みんなちょっと待てって!」
「マジで言ってるの~? 嘘でしょ~?」
ソファに座ったままの哲也は、口調は面白がっているものの、目は笑ってない。
「啓司、どういうこと?」
ケンチがあえて落ち着いた声で俺に尋ねる。
つかさがその声に反応し、俺のシャツの裾をぎゅっと握った。 その手を握り、腰を落とす。
「つかさ? さっき言ったろ、これが俺の仲間。挨拶できる?」
俺の目を見て小さく頷いたつかさ。背中をそっと押してやると、みんなの方に向き直し、まっすぐ立ってペコリとお辞儀をした。
「つかさです、よろしくお願いします!」
勇気を振り絞った大きな声。頑張ったご褒美に頭をくしゃくしゃに撫でてやる。……が、みんながつかさを見たままリアクションがない。
「けいじくん……」
不安そうなつかさの声。マジか、こいつら大人げない。
「おまえらなぁ……」
「……か、かわいい」
ボソッとアキラがつぶやいた、その瞬間。
「「「「「かわいい!!!」」」」」
「うっせーよ、おめーら! つかさがびっくりするだろうが!」
「待って、待って、もう一回やって」
つかさに向けてパシャパシャとシャッターを押し始めるネス。
「おじちゃんが肩車しようかー?」
ニコニコしながら近づいてくるアキラ。
「ぐすっ」
ヤバい、つかさがそろそろ限界。
そして、決定打はやっぱり将吉だった。
「ヤバい! マジでヤバいっす! つかさ、ゲキかわいいっす!!」
目力強いままでつかさに駆け寄るなっ! ほら、つかさが後ずさっただろう!
「ぐすっ、ぐっ」
ヤバい、つかさがヤバい!
「何歳っすか! 抱っこしていいっすか!」
つかさに顔を寄せるな! 将吉、目っ! めっ!
「待て、待てって、将吉!」
それは、将吉がつかさに両腕を伸ばした瞬間だった。
「うわーんっっ! けいじくーん!」
俺にしがみつくつかさ。
「「「「「将ーー吉ーーーーー!!!!」」」」」
全員で将吉にシャウト。
「大丈夫だから、こいつはお前を取って食ったりしない。大丈夫だから、つかさ」
泣いたままのつかさを抱っこし、背中をさする。
「わ、わ、ごめんなさい」
将吉が慌てて謝ろうと近寄るが、
「わーん、わーん!」
余計に逆効果。つかさは俺の肩に顔を埋めたまま。
「「「「将ーーー吉ーーーーーー!?」」」」
「……ほんと、ごめんなさい」
しょぼんとする将吉。最初からその目で来いよ。
「大丈夫。怖いおじさん、あっちにやるから。ほら、将吉、しっしっ! ハウス! 」
部屋の隅っこで肩を丸める将吉は、完全に『待て』ができずに怒られた子犬。
「ぐすっ、ぐすっ」
「ほら、もう泣きやめ。あとであのおじちゃんに飴ちゃんでも買わせるから 」
いまだに泣いているつかさの頭を撫でる。
「あのー、お取込み中に申し訳ないんだけど。啓司、ちょっと」
この修羅場に割って入ったのはマネージャー。
「おう。ケンチ、つかさ頼める?」
「あぁ。後で詳しいこと聞かせろよ。じゃぁ、つかさくん? おじちゃんたちと一緒に遊ぼうか。おのおじちゃんは、あんな目をしてるけど本当は怖くないからねー」
ケンチは、ファン曰く『全人類を虜にする麗しい微笑み』(俺調べ)でつかさに両手を広げた。やっぱり虜にされたつかさも大人しくそれに従い、その身体を俺からケンチの腕に移した。
「つかさ、待ってろ。ちょっとこの人と話してくるから」
ケンチの腕に抱かれながら、つかさは不安そうに、でもしっかりと俺を見て頷いた。
*****
俺とマネージャーは空いている控室に移り、俺からは朝の出来事、由宇のこと、つかさが俺の子供かもしれないことを伝え、マネージャーからは由宇について分かったことを教わる。
――由宇が病気で亡くなったこと。つかさは、一時的に児童相談所に預けられていて、今日から養護施設に移る予定だったこと。その日につかさがいなくなり、児童相談所はつかさを探していたこと。
「由宇が、死んだ?」
信じられなかった。
「あぁ、残念だけど。……由宇さん、親戚とかいないのかな」
「小さい頃、両親が離婚して母親に引き取られたが、その母親はもう亡くなってる。父親はどこにいるかも分からないし、兄弟もいないはずだ」
「そうか。じゃ、つかさくん、一人ぼっちだね。どうする、啓司?」
「どうするったって……」
まだ、頭がついていかない。由宇が、死んだ。
「とりあえず、児童相談所には、僕が由宇さんの友人で、つかさくんを預かっていると伝えておく。これからのことは社長にも相談しなきゃいけないだろう。その時は僕も行くから」
由宇が死んだ。つかさはひとりぼっち。由宇が俺につかさを託した。つかさは一人で俺のところまできた。由宇が死んだ、由宇が死んだ、由宇が死んだ……
「ほら、つかさくんが待ってるよ」
マネージャーに肩を叩かれて、ようやく、我に返った。
*****
「つかさー、大丈夫かぁ?」
そーっとそっと、みんながいる控え室のドアを開ける。
案の定、目の前にいるのは、やつらに泣かされているつかさ……ではなくて。
「おかえりなさい、けいじくん!」
ニコニコのつかさと
「「「「「おかえりー!!」」」」」
つかさ以上にニコニコのおっさん5人。
「はっ?」
ケンチの膝の上に乗り、溢れんばかりの笑顔でチョコレートケーキを頬張るつかさ。ケンチが聖母のような微笑みで、つかさの頭を優しく撫でている。
「てつやくん、ケーキおいしいっ!」
ニタッて前歯を出して笑うのは……誰に似たんだ、この人たらしめっ! ほら、見てみろ、哲也の顔!
「今度、お店に出す試作品なんだ。まだたくさんあるよ~」
哲也、甘ぇよ! お前の声はハニーラテかっ!
「まじっすか!?まだもらっていいっすか!?」
そして、つかさの横で同じようにチョコケーキを貪っているホッキョクグマ、もとい、将吉。
「だめ~。これはつかさにあげるんだから。将吉はいっつも食べてるじゃん~」
「……はぁい。ごめんなさい」
将吉がとても分かりやすく肩を落としている。何だよ、その迷える子羊みたいな目は。その目でつかさに近寄れば、つかさも泣かずに済んだのによ。
「ぼく、もうおなかいっぱいだから。ほら、しょうきちくん、どうぞ!」
つかさが将吉にケーキを差し出した。
「いいの? ありがとう!」
目を輝かせる将吉よ、お前、4歳児に気を使われてるぞ。
「え、えらい、えらいぞ、つかさ!!」
アキラが急にでっかい声を出して、つかさを抱きしめた。いや違う、あれは羽交い絞めだ。
「いたい、いたいよ、アキラくん」
「あ、ごめんごめん! でも、なんていい子なんだ」
目をうるうるしながらつかさの頭を撫でるアキラ。お前はどこのおっさんか。
「将吉くん、はい、アーン」
つかさはニコニコしながら、さっき食べた二個目のチョコケーキを将吉に食べさせてる。将吉にかかればかわいらしいチョコケーキなんて一口でおしまいだ。
ネスはっと……パシャパシャ、シャッターを切る音しかない。お前、一体写真を何枚撮るつもりだよ…………その写真、寄越せよ、絶対に寄越せよ!
「ふっ」
つかさがもうすっかり懐いてやがる。これなら、大丈夫かもしれない。
「でも本当にいい子だよね。親の愛情をたっぷり受けて育ったんだね。優しいお母さんなんだろうな」
ケンチが目尻をくしゃくしゃしたまま独り言のようにつぶやいた。
「……ゆぅ……」
「ん? 何、啓司?」
「由宇だよ、母親」
「由宇ちゃん? 由宇ちゃんの子ども?」
すぐに由宇の名前に反応した哲也。デビュー前は由宇も一緒によくみんなで飲んだっけ。
「由宇さん、帰ってきたんですか!?」
ファインダーを覗いていた顔をこっちに向けるネス。丸い目がますます丸くなって、まるで刑事役をよくやっていた外国人の俳優のようだ。
「んにゃ。朝、こいつだけ家にやってきた」
「由宇さんは?」
ネスがおそるおそる尋ねる。こいつはこういう時の勘は鋭い。
「……死んだとよ」
「え?」
アキラが思わず声を出した。
「どういうこと?」
哲也が眉根を寄せてこっちを見上げる。
「まだ、よく、わっかんねぇ、けど」
こめかみをかきながら、少し考えた。
「……けいじくん?」
つかさがいつの間にか傍に来ていて、俺のシャツの裾を引っ張った。
「ん?」
「けいじくん……ぼく、じどうそうだんじょにかえる?」
下唇を噛んで、心配そうな上目使い。
「おいで」
笑ってみせたあと、両手を広げてつかさを抱き上げた。目の前には、潤んだ小さな薄茶の瞳がこちらを見つめている。
「帰りたくない?」
「うん」
「じゃ、一緒に暮らすか?」
「……いいの?」
「あのおじちゃんたちにも、お願いしなきゃならないけど」
つかさと一緒にあいつらの方を向くと、呆けた顔が5つ。
「あははっっ。アホ面ーーー!!」
「ちょっと、啓司、ちゃんと説明して」
さすがリーダー、ケンチが収拾にかかった。
「あぁ。するする」
「けいじくん、だいじょうぶ?」
「あぁ。大丈夫じゃねぇ?」
心配そうにこちらを伺うつかさの頭をくしゃくしゃにしてやった。大丈夫。こいつらとならなんとかなるかも。いや、こいつらだからこそ、これからも一緒にやっていける。つかさも一緒に。
――これが、俺が『家族』をもった、初めの第一歩。
Continue
******
Let Go Again
この人といつも二人で来ていたBar。いつも綺麗な夜景が、今夜は雨粒で滲みながら、よりキラキラと光っている。
いつも座るカウンターの端の席。いつものように彼は私の左側。年上の彼と過ごす大人の夜。
でも、ここに来たのは何か月ぶり。もう二人では会ってくれなくなっていた彼からの、久しぶりのお誘い。大抵は当たってしまう私の悪い勘も、今日だけは外れる。きっと。
……でも、それはやっぱり当たっていたみたい。
彼がゆっくりとグラスを傾けると、中の氷がカランと空しい音を響かせた。
「マスター、彼に同じものをもう一杯」
グラスが空になると、この時間が終わりになるから。彼が困った顔をしたことには、気づかないふりをした。
マスターが静かに彼のグラスを交換する。
「……伶菜?」
幾度となく、そう私を呼んでくれた優しい声。あと何度、同じように呼んでくれるであろうか、その声で。
「なーに?」
わざと、甘ったるい声を出してみる。
「……俺たちはもう会わない方がいい」
「……いやだといったら?」
私は、彼の右手に自分の手を重ねた。彼は、こちらを見てはくれない。
「伶菜……」
「……私のこと、もう愛してはくれない?」
「愛してた、よ……」
俯いた顔。彼の睫毛が瞳の下に影を作る。
「これからは? もうあなたの中に私はいない? これっぽっちも?」
彼を困らせているのは分かっていた。それでも、彼の愛がほしかった。
彼の右手が、重ねられていた私の左手をゆっくりと握る。大きくてしなやかで私よりほんの少しだけ暖かい、その彼の手に包み込まれるとき、私はいつも幸せだった。その時は彼を独り占めできたから。
でも、それはほんの一瞬だった。彼の手に力が込められたとき、『伝わった』と、そう思ったのに。
すぐに、私の左手はその大切な暖かさを失った。
「……そろそろ、帰るよ」
私の大好きなその笑顔で、簡単に終わりを告げないで。
でも、その瞳の色が少しだけ苦しそうに見えるのは、私の願望なのだろうか……もう視界が滲み、それをはっきりと分かることができなくなった。
「伶菜? これからは伶菜だけを愛してくれる人を見つけて。幸せになって」
彼は私の頭をそっと触れると、そう呟いて、カウンターの席を立った。
閉まる扉の音が鈍い。
私は、彼が残した最後の一杯を一気に飲み干した。
「分かってる……分かってるけど、それができたら……こんなに……」
お願い、私を一人にしないで。
*****
「マスター、こんばんは」
「こんばんは、啓司さん」
「こいつ、またつぶれてんの? いつもごめんね」
「啓司さんこそ、いつもご苦労様です」
「まぁね、もう慣れてるから。ほら、伶菜、帰るぞ」
頭にポンポンと心地よいリズム。聞き慣れた声。少し目を開けると、サングラスを少しずらして、呆れながらも心配そうにこちらを覗く優しい瞳がそこにあった。
「……お、義兄ちゃん? 迎えに来てくれたの? ありがとう」
瞼が重い。
「おい、寝るなよ! 担いで帰る俺の身にもなれ」
「ふふっ。いつもごめんねー。でもさぁ……もう限界……」
私は、いつも差し伸べてくれるこの手を、やっぱり大きくて暖かいけど、あの人とは違うごつごつとした男らしい手を握り、そのまま目を閉じた。
悲しい一日が終わることだけを願って。
「おいっ! て……もう……伶菜? 伶菜?……」
泣いていた私に、あの人が笑顔を向けてくれる。最後に見た苦しそうな笑顔じゃなく、目尻に皺を寄せて崩れるほどの眩しい笑顔で。『伶菜』って何度も呼んでくれるの、あの声で。
「お、願い……もう、一人にしないで……」
涙をぬぐいながら頬を包み込んでくれる大きな手は、あの人のものなの。きっとそう。きっと……
「……健一郎……さん……」
だからお願い、夢なら冷めないで……その手を、その声を、あなたを独り占めさせて……
「……伶菜……幸せになってくれよ……じゃないと、俺はもう……」
ずっと夢を見ている私に、お義兄ちゃんの声は届かない。
End
My boy Vol.2 ―― Keiji.K
*****
――ちょこんとテーブルから顔だけが出ている。
家に初めてきた小さな客。
あれから、何とかつかさをトイレに連れて行き、シャワー、着替えを済ませ、今はこいつの汚れたパンツを洗濯中。
「飲むか?」
やっと泣き止んだこいつの前に、牛乳の入ったコップをコトンと置いた。
小さな頭は、俯いたまま横に揺れる。
「お前、つかさっていうの?」
今度は縦に揺れた。
「ママは、”ゆう”?」
縦に小さくコクン。
「パパは?」
恐る恐る聞いてみる。
すると、つかさがゆっくりと俺を指さした。
「……けいじくん……ってママが……」
「嘘だろっ! おいっ!」
思ったより大きな声が出てしまい、つかさの肩がビクッと上がった。
「あ、ごめん。脅かすつもりじゃなかった」
咄嗟につかさの頭を撫でる。それにしても……
「はーっ」
溜息しか出ない。こいつが俺の息子? 息子って? そんなことまったく聞いてない。社長に何て言えばいいんだよ。いや、そもそも本当に俺の息子? 由宇、なに言っちゃってんの? 由宇は嘘をつくような奴じゃない。でも、はいそうですか、と信じるわけにはいかないだろ、由宇!
「……けいじ、くん?」
どうやら途中から言葉が口から出ていたようだった。つかさがこちらを不安そうに見ている。
「そうだ! 由宇は? ママはどこに行った?」
俺を見上げていたつかさが固まった。
「ママ……ママが……けいじくんの、とこ、ろにって……」
みるみるうちに目に水が溜まっていく。
「あー、分かったから。男だろ、泣くなって 」
困って頭をくしゃりと撫でてやると、つかさはシャツの袖で目を擦った。
「……ないて、ない、もん……」
もう一度、牛乳を差し出してやるが、やっぱり首を横に振るつかさ。ったく、その強情さは誰に似たんだよ。
「それで、ここまでどうやって来たんだ?」
そう尋ねると、つかさは黙ったまま、ポケットの中からくしゃくしゃに丸まった紙と鍵を取り出し、テーブルの上に置いた。
鍵は見覚えがあった。由宇が持っていたここの鍵だ。『K』が象られた革製のキーホルダーにつけられている。
丸まった紙を広げると、由宇の文字でここの住所とつかさの家からここまでの行き方が大きなひらがなで書いてあった。
「お前ひとりで?」
無言で首は縦に。
「……えらかったな」
素直に褒めると、つかさはまた下を向いた。
微妙な空気。何を話していいか分からない。由宇のことを聞きたいが、また泣かれてもなぁ。しかも由宇にそっくりなその大きな目でさ。
しばらく続いた沈黙を破ったのは、漫画のようなあの音。
グーーーーッ。
「お腹、すいたのか?」
つかさに聞くが何も答えない。
「何か言えよなぁ」
グーーーーーッ。
「プハッ。それが答えかよ。何か食う?」
子どもに食べさせられるようなもの何かあったかなぁ、と冷蔵庫の中身を思い出そうとしていたとき、つかさが上目使いでこっちを見た。
「……オ……ライ……」
小さなつかさの声。
「ん?」
「……オムライス」
「オムライス?」
「……ママがいってた……けいじくんの、オムライス、は、おいしいって……」
「由宇が?」
小さな頭が縦に動く。
「ん、ちょっと待ってろ。今、うまいの作ってやる」
久々に誰かのためにキッチンに向かった。
確かに由宇にはよくオムライスを作ってやったな。あいつ、俺より料理ができなかったぞ。つかさはちゃんとご飯を食べさせてもらってたのか?
「卵はあるだろ、鶏肉、玉ねぎ、人参、意外とあるじゃん。あと……ピーマン、か」
冷蔵庫の中から材料を取り出し、切り始めた。
「つかさー?」
俺の声を聞いたつかさは、ぴょこぴょこ歩いてキッチンまでやってきた。
「お前、ピーマン大丈夫?」
予想に反して、つかさは『うん』と答えた。
「ママが、ピーマン食べないと大きくなれないって」
「プッ! よく言うよ。あいつ、ピーマン食べられないくせに」
「……ママ、ちいさくして、オムライスにいれたらたべられるって、いってた、よ」
「……ふーん」
あいつ、よく言ってた。『啓司くんのオムライスならピーマンも食べられる』って。子どもみたいな笑顔で。何だよ、俺のこと、忘れてないじゃん。じゃあ、何が不満で出て行ったんだよ、あいつ。ずっと長い間考えても分からなかった、今も心の奥で燻っていた疑問が蘇った。
と、同時に閃いた。
「あ、そか」
つかさか? こいつができたから、お前はいなくなったの? そういうこと? 由宇。
「ん?」
手を動かしながらもぼんやりと考え事をしていたら、Tシャツの裾がツンツンと引っ張られた。
「どした? まさか、またおしっこ?」
つかさはプルプルと首を振った。
「……おてつだい、する」
「お、おう、じゃ、ここにスプーンがあるから持って行って」
「はい」
素直に返事をし、スプーンをテーブルに置くつかさ。躾ができている。絶対、俺の子じゃない。
「食っていーぞ」
出来立てのオムライスをつかさの前に置く。つかさは大人しく座って、まっすぐ背筋を伸ばし、両手を合わせた。
「……いただきます」
つかさはぺこんとお辞儀をし、スプーンで小さめの一口をすくって頬張った。お上品だ。絶対に、絶対に俺の子じゃない。
「うまいか?」
つかさの顔を覗く。もぐもぐと動く口。一口目がコクリと喉を通った後、小さな瞳が一回ギュッと閉じ、そのあと、パーッと明るく開いた。
「うんっ!」
初めて見るこいつの笑顔。前歯をむき出しにニターーッって笑う。その顔は、まるで、まるで。
――やっぱり、俺の子、か。
「あーっ、もう! 考えるのやーめた、面倒くさい!」
俺の二度目の大きな声でまたびっくりするつかさ。不安そうな顔をするから、同じ顔でにんまり笑ってやった。
「あ、わりぃ、わりぃ。早く食っちまおうぜ」
勢いよくオムライスを口にかっ込む。つかさも一緒にスプーンを口に運んだ。
「っうめっっ! 俺、天才! お前もそう思わねぇ?」
「うん! けいじくんのオムライス、おいしいっ!」
「当たり前ー!」
そう言いながら食ってたら、2人の皿はあっという間に空になった。
「「ごっちそうさまー!」」
2人で合掌。それと同時に鳴る、エントランスからのインターホン。画面には、仕事の迎えに来たマネージャーの顔。
「わ、もうそんな時間かっ! やべっ」
どうせあっちで着替えるから、と洋服はそのままで、慌ててキャップを被る。 『すぐ行く』とインターホンに返事をし、最近お気に入りの赤いワンショルダーバッグを引っかけて。
――また、ツンツンとTシャツの裾を引っ張られる感覚。
そうだ、こいつがいた。つかさの前で屈み、目線を合わせる。
「一緒に来るか?」
「……いい、の?」
「一人でここにいるか?」
「……ううん」
「ん、じゃ」
俺が手を差し出すと、つかさもおずおずとその手の上に自分の手を重ねた。
「けいじくん?」
「ん? 何だよ」
「けいじくんがえらいひとにおこられない?」
俺の方を心配してくれるつかさ。つかさの方が不安だろ。
「まぁ、なんとかなるだろ」
ギュッと握ってやる。つかさも小さな力なりに握り返してくれた。
そのまま手を繋いで、玄関を出た。
「じゃ、行くか」
2人で並んで廊下を歩き、エレベーターに乗り込む。
――これが、つかさと2人で歩きだした、初めの第一歩。
Continue
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My Boy Vol.1 ―― Keiji.K
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朝は弱い。昨日もレモンサワーを飲み過ぎたし、とどめのラーメンで胃ががっつりもたれてる。やっぱりもう若くはねぇなぁ。仕事が昼からでよかった。暫くベッドに潜ってよう。
ピンポーン
誰だよ、朝っぱらからうっせーな。一人で寝るには大きすぎるベッドの上で寝返りを打ち、シーツを頭から被った。
ピンポーン
ん? 部屋のインターホン? オートロックを抜けてるってことはマネージャーか?
「やべぇ、時間、間違えちまったか‥‥‥」
しょうがない。目を擦りながら重い身体を起こす。上半身裸のまま、そこに放り投げていたスウェットのズボンを履きながら玄関に向かった。汗をかいててベタベタするし、尻がかゆい。
「わりぃ、シャワーだけ浴びさせて」
玄関を開け、頭をかきながらマネージャーに向かってそう言った。
が、そこにマネージャーはいなかった。‥‥‥というか、誰もいなかった。
「ん?」
どういうこと?
ツンツン、ツンツン。
スウェットのズボンを引っ張られる感触に、下を向くと‥‥‥
リュックサックを背負ったガキ、失礼、小さな男の子が一人。何歳くらいかわかんねぇ。幼稚園くらいか?
「はーっ?」
ツンツン、ツンツン。ただ驚くだけの俺にもう一度ズボンを引っ張るガキ、失礼(以下略)。
「っんだよ」
つい大きな声を出してしまい、ガキがビクッと肩を震わせた。
「わりぃ」
頭をかきながらガキに謝った。
「親とはぐれたのか? 名前は?」
ガキの頭に手をのせて尋ねると、ガキは口を真一文字に結んだまま、胸に抱えていた紙を俺の前に差し出した。
「ん?」
差し出された紙を広げたら、そこには短い文章が書いてあった。
【つかさはあなたの子です。今さらごめんなさい。頼れるのが啓司しかいないの。どうかつかさをよろしくお願いします。啓司が引っ越ししていませんように。由宇】
懐かしい、由宇の字だった。5年前、この部屋から突然消えた女。
こっちを心配そうに見るガキの顔を見る。これが俺の子ども? 確かに由宇の面影があるが、これが俺の子ども?
「はっ? 嘘だろ。 由宇、どういうことだよぉ」
思わずしゃがみこんで頭を抱える。書き置きってことは由宇はここにはいないのか? なんの冗談だよ。
「ママー」
ちょうど頭の横。初めて聞くガキの声。
ガキを見ると、目に涙を溜め込んで、流さないように必死に堪えている。
「お前、捨てられたの?」
ガキの瞳から落ちまいと耐えていた涙が一粒、ポロリとこぼれた。それがトリガーとなって、我慢して無理やりに大きく開いていたガキの瞳が閉じ、顔がぐちゃぐちゃに崩れる。
「ママーー! ママーーー! エーンエーン」
ポロポロと崩れ落ちる涙。子どもって本当にエーンエンって泣くのな。ってそんなこと感心してる場合じゃねぇ。
「わー、泣くな、泣くなって!」
ガキの目からはどんどん水が溢れ出て、Tシャツを濡らしていく。そしてTシャツだけじゃなく、ズボンまでも‥‥‥
ん? ズボン?
「わっ! お漏らしかっ!」
「わーん、ママーーー! エーン!」
「待て! 待てっ、ガキ! じゃねぇ、つかさ!! 待ってくれ! 」
俺はそのままつかさを脇に抱え、風呂場にダッシュした。
「泣くな、つかさ! まずは脱げっ。えっ、うんち? わ、待て、待てって!」
わーーーーっ!!!
――これが、つかさと出会った、俺たち2人のほんとのほんとの、初めの第一歩。
Continue
The Ripper (※閲覧注意)
9月の夜雨はアスファルトから熱気を奪い、その独特な匂いと不快感をぼんやりと立ち昇らせる。
予想外に残業が長引いた。女は殆ど車の通らない暗い道を急いだ。
路地裏を曲がると、その少し先に男が一人、ガードレールに腰をかけていた。持て余すように前に投げ出している長い脚が、男が長身であることを物語っている。足元に目線を置いたまま、ポケットに手を入れ、楽しそうに鼻歌を歌う男。
女が男に近づくにつれ、その聞いたことのあるフレーズが第九、歓喜の歌であることが分かった。
――それまでの完成された世界の全否定と強烈な不協和音、そこから脱して初めてこの最高の音楽が誕生するんだよ――
あの人の口癖、女はそんなことを思い出していた。
傘も差さず、どれくらいそこにいたのだろう。街灯に照らされた金色の髪が濡れそぼり、雨粒が光を反射していた。
男が気配に気づき、目線を女に向けた。光を通していない、それでいて美しい琥珀色の瞳。薄い上唇は真一文字に結ばれている。怖い、一瞬女は身震いした。
「よっ」
男は軽やかにガードレールから降り、右手を挙げた。いつものように歯を出し、女に笑顔を向けている。怖いと感じたのは気のせいだったのか。
「何だ、啓司じゃない。びっくりした」
人通りが少ない路地を一人で歩いていた心細さに解放されたこともあり、女は安堵した。相手が啓司だったこともある。
啓司は女が最近付き合い始めた恋人の友人だった。長身に加えて骨太で程よく鍛え上げられた筋肉質の身体、鋭い眼光で強面の男らしい顔、自分をよく知った上で流行をとらえて着こなした服装。その文句なく男前の外見に反して、話してみると屈託なく笑い喋り、時々天然を発揮する。その親しみやすさで、女にとって啓司は和む、そして少しだけ意識してしまう存在になっていた。
何より啓司は喧嘩が強い。これでもう安心だ。
「傘もささずにどうしたの? 私を待ってたの?」
「あぁ。そろそろ帰るころだと思ってさ。こんなに降ると思ってなかったから。へへっ」
啓司は濡れて重くなった頭を仔犬のようにブルブルッと振り、周囲に水しぶきが飛び散った。
「くすっ」
女が思わず笑みを零した。啓司が濡れないよう、自分がさしていた傘を啓司に向ける。
「何?」
「かわいいなって」
「こんなおっさんに何言ってるの」
啓司がわざと片眉をあげた。
「照れてんの?」
「……うっせー、バーカッ」
照れて真顔になる啓司もかわいいと思えた。
「で、どうしたの? 私に何か用事があったから待ってたんじゃないの?」
「あぁ、そうだった」
啓司がまたへらっと笑う。
「もう、まさか忘れちゃったとか?」
いい加減な啓司にはよくあることだ。啓司はまだ笑っている。女もつられて笑った。
「……いやぁ、ねぇ」
「何?言いにくいこと?」
「そんなことないけど」
くぐもった啓司の声。一呼吸おいてまたにやけた。
「俺にしたらどうかなぁって?」
「はぁ?」
女は啓司の言葉を理解できなかった。
「だって、あいつもうお前のこといらないんだって」
「彼がそう言ってるの?」
ヘラヘラと歯を出したままでとんでもないことを言う啓司に、耳を疑った。 信じられなかった。
「かわいそうに。俺、お前のこと気に入ってたのになぁ」
「えっ?」
啓司は何を言っているのだろう。突然のことで訳が分からない。
「お前、いい女だし」
「ねぇ、一体……んっ!」
言葉が終わらないうちに、啓司は女の唇を奪った。女は啓司の胸を叩き抵抗を示すが、もちろん啓司はびくともしない。唇を貪るように塞ぐ。長く激しい口づけに息苦しくなり少し口を開ける、その瞬間を逃さず、啓司の舌が女の口内に滑り込んできた。啓司は巧みに女の口内をくまなく蹂躙していく。
女は抵抗をやめ、激しく動く啓司の舌の動きに必死についていった。崩れ落ちそうになる女の腰を啓司の大きな手が支え、女の身体を引き寄せる。
「んぇ」
漏れる息。強くなる雨音。時折ヘッドライトが二人の足元を照らすが、向こうからは死角になっていてこちらは見えない。
啓司の香水が雨とアスファルトの匂いを掻き消し、女の鼻腔をも犯していった。無我夢中で、ここが外であることも身体が濡れて冷え切っていることも忘れていた。
啓司がようやく唇を離したとき、女は息があがり、肩が上下していた。濡れた瞳でうっとりと啓司を見つめる。
それは女が堕ちたとき。
「ごちそうさま」
啓司は、おいしかった、と女の赤いグロスと唾液で濡れ光った唇を骨ばった手で無造作にぬぐった。その仕草はとんでもなく男の色気を放っていた。
「じゃ、バイバイ」
それが啓司が女に発した最後の言葉。
何が起きたかわからなかった。
「けい、じっ…」
それが女が発した最後の言葉。
いや、女は途中までしか音を放つことができなかった。
啓司がポケットからバタフライナイフを取り出した瞬間、シュッンという風の音とともに女の喉が掻き切られた。女の首の穴からヒューヒューと空気が漏れる。
女が最後に目にしたのは、啓司の妖しく光る琥珀色の瞳、いつも彼が左耳につけている十字架(クロス)のピアス、そして、顔中に自分の血が飛び散った彼の微笑み。
啓司が手を離すと、物体と化した女の身体がアスファルトに倒れこんだ。
男は片方の口角を上げたまま、女の血がベットリとついたバタフライをひと舐めする。
「ごめんねぇ。あいつが殺れっていうからさ」
男はいつものようにヘラヘラと笑い、その場を後にしていった。雨にうたれ、歓喜の歌を口ずさみながら。
End
朽ちる身体 Vol.4 ―― Silk Jasmine(月橘)
*****
「もうおしまいにしよ?」
二週間ぶりに抱いた恋人は、ベッドの上で背を向け、下着を身に付けながらさらっと明るい声でそう言った。
「何、どうしたの? 俺が何かした?」
彼女の腰を取り、こちらに引き寄せようとするが、その手を振りほどかれる。
「ううん、何も。ただ……私を愛してくれない人と一緒にいるほど暇じゃないから」
わざとはすっぱな言葉を選んだ彼女。感情を押し殺した声。
何も言い返せずにいると、彼女は何事もなかったように身支度を整えていった。
コトリ、とテーブルに置かれる部屋の鍵。
「じゃ」
たったそれだけの別れの言葉と、閉まるドアの音。
分かっていた。最後の彼女の声が震えていたことも、今すぐに追いかけて彼女を抱きしめてあげれば元に戻れることも、それが彼女の一縷の望みであることも。
分かっていて、足が動かなかった。ただ乱れたままのベッドに座っているだけだった。
いつもはうまくやれるのに、今回の彼女には見抜かれてしまった。別れを切り出されるのは初めてだった。それだけ、彼女はちゃんと「俺」を見てくれていたのだろう。
――彼女には分かっていたのだ。ボクが人を愛せないということが。
ボクは誰にも支配されたくなかった。恋人にも家族にも、もしかしたら自分自身、その身体にすら。
だから、ボクにはいつも現実感がなかった。 心が身体に縛り付けられていない。それは自由なようであり、不安定でもあった。
その心許なさを埋めたくて恋人を作るが、しばらくして窮屈になり手放す。今まではその繰り返しだった。今回は手放すより先に、その身勝手さを見破られてしまったけど。
「はぁ。新作でも考えるか」
溜息と独り言を部屋に残し、すぐ近くにある自分の店に向かった。
真夜中の湿った空気、アスファルトからぼんやり昇ってくる独特の匂いが、一度雨が降ったことを知らせている。見上げると雨雲は流れたようで、すでに何個かも星が見えていた。
――今夜も青白い満月が白い花を照らし、甘い香りが立ちこめているであろう。
店の前にディスプレイとして植えているシルクジャスミン。この季節は青々とした葉からたくさんの白い花が咲き零れている。別名は「月橘」(げっきつ)。ジャスミンのような甘い香りが月夜の晩だとより強く香ると言われる花だ。
店に向かう最後の角を曲がると、アスファルトの匂いは消え、想像した通りの爽やかな香りがボクをいざなった。
目に入ったのは、先ほどの雨で濡れそぼつ月橘と、月の光に照らされたボクより少し小さな人影。
艶やかな漆黒の長い髪を一つにまとめ、シンプルで真っ白なワンピースを着ている美しい女性。それが貴女だった。月橘の前に立ち、花の香りを嗅いでいる。店のシェードで雨宿りをしていたのか、身体はあまり濡れていない。それなのに、切れ長の目に乗せられた長い睫だけが濡れていて、なぜ貴女が泣いているのか、それがとても気になった。
真っ白な花を手折る、その爪だけが深紅という「色」を放つ。
手折った花を持ったまま、貴女はゆっくりとこちらに顔を向けた。ボクを見てなぜか笑顔を浮かべ、近づいてくる。
ボクは貴女に囚われたまま、身動きすることができない。
「……見つけた」
いつの間にか目の前に来ていた貴女。強いジャスミンの香りがボクの鼻腔を刺激する。
「このまま朽ちようとも思ったけど……見つけてしまった……アナタを……道連れにしてごめんなさい」
花の香りより甘い声。ボクをまっすぐに見つめる優しい瞳。少し困ったような弱々しい笑顔。透き通るほど白い肌。
視線が下に移動し、ボクの首にある数多のホクロをゆっくりと順番になぞっていく。ボクは貴女のなすがまま。
「白くて綺麗な肌……」
貴女が嬉しそうにそう呟く。そして、鎖骨の上にあるひとつのホクロに手が止まり、綺麗な深紅のネイルで彩られた長い爪がそこに小さな痛みを与えた。
ボクの白い肌から緋色がじわりと滲みでる。
その痛みは初めての感覚で、そう、「快感」と呼べるものだった。ボクの身体はようやくボクの一部となった。
それは、ボクがようやく感じることのできた「生きている証」だったから。
流れる緋色の血が、貴女が持っていた月橘の花に滴り、その純白を深紅に染める。まるで貴女の爪と同化するように。
ひんやりと冷たい貴女の唇が、鎖骨につけられたその小さな傷にそっと押し付けられたとき、ボクはそっと目を閉じた。
「……これで、やっと朽ちることができる」
それは、貴女とボク、どちらの言葉だったのか、今はもう思い出すことができない。
――これが、ボクが美しくて優しすぎるヴァンパイアに囚われた瞬間。
End
*****
朽ちる身体 Vol.3 ― Scabiosa(スカビオサ)
*****
月白の光が、驚いた健一郎さんの顔を照らした。その光に照らされた髪は青というより碧く、美しいなぁなんてぼんやり考えていた。
「自分が何を言っているか、分かってる?」
一呼吸の間をおいて、彼が言葉をのせた。
私はただ頷く。
「吸血鬼になるつもり?」
「……はい」
もう一度頷いた。あなたと同じものになりたいから。
健一郎さんが溜息を一つ、深く吐いた。
「元には戻れないんだよ」
「分かってます」
「じゃ、何で?」
「貴方と生きていたいから」
私は答えを迷わなかった。
「それが永遠に続くんだ。君は、それがどういうことなのかわかってない」
彼が私を見つめる。その瞳は、突飛なことを言い出した私への驚きと同情と……懇願だった。
「ううん、分かってるよ」
私は彼のこめかみに触れ、その碧い髪に指を絡ませる。
「……私には別れを悲しむような人もいない。私は、今まで一人だったの。ううん、一人ですらいなかった。私は生きていなかった。今、貴方のおかげで私は生きているの」
彼は俯いて、私が紡ぐ言葉を聞いていた。私は彼の頭をそのまま引き寄せ、胸に彼を抱く。
「……もう一人はいや。貴方を一人にするのもいやなの。これで貴方の孤独を終わらせてあげられる」
彼は目を瞑り、おでこを私の胸に委ねてしばらくそのままにしていた。その重みが心地よくて、私はそのまま彼の髪を撫でていた。
「ねえ」
健一郎さんが私を見上げる。背の高い彼に見上げられるのは初めてのことで、甘えた声と合わさって、なんだかとても彼が可愛らしかった。
「ん?」
「知ってる? 吸血鬼にも性欲はあるんだ」
目尻に皺を寄せた、私の大好きな彼の微笑み。
「ふふ。さっき聞いたわ」
自然と体勢が変わり、もう私は彼の下に。今度は彼が私の髪を撫でる。彼が私を見つめる瞳にはもう先ほどの混乱や懇願はなく、あるのはただ濡れかかる妖艶。
「ずっとこうしたかったんだ。我慢できなくなるから、なるべく会わないようにしてたのに」
彼はゆっくりとそう言いながら、私のブラウスのボタンを一番下まで丁寧に外していった。
「私がしたかったの」
わざと軽い言い方をした私に、彼は愛おしそうな視線を向け、頬を撫でる。それがくすぐったくて堪らなかった。
「ねぇ、吸血鬼でもキスはできるの?」
「どうだろ、試してみようか?」
おどけて聞く私に向かって、彼は片方の口角を上げた。そこには牙は見えなかった。便利な牙だな、なんて考えてると、そのまま健一郎さんの顔が近づいてきて、私たちははじめてのキスをした。
食料としてではなく、私自身を求めてくれる彼の舌の動きに、私はすぐに夢中になった。
月夜に照らされ、重なる二人の影。
彼が私の名前を何度も呼ぶ。その度に私の子宮が収縮し、彼が苦しそうな声を上げた。
「けんちっ、ろっ、さんっ」
私が彼の名前を呼ぶ、その度に彼が大きく脈打ち、私の中を支配した。
何度目かの絶頂の後、彼が果てるとき、私は同時に意識を手放した。
*****
「……じょ……ぶ? 大丈夫?」
彼の声が遠くで聞こえる。うっすら目を開けると彼の残像がぼやけ歪む。それは私がガタガタと震えているからだった。
「うっ」
声が出せない。喉が焼けるように熱い。
「落ち着いて」
健一郎さんに抱き締められた。
「ううっ」
頭が割れるように痛く、身体中の全ての血液が脳と視神経に向かって逆流していく。口の中でなにかが動き回っていて言葉を発することができない。口元に手をやると、牙が飛び出しているのが分かった。
「落ち着くんだ。大丈夫だから」
私を抱き締める健一郎さんの腕の力が強まる。
苦しい、苦しいよ、助けて、健一郎さん。その声が出ない。
そのとき、彼が私の後頭部を支え、自分の首元にあてがった。
「そのまま牙を立てろ」
何を言っているかわからなかった。
「大丈夫だから」
彼が私の背中をさすりながら言う。
「深呼吸して。そのまま牙を立てろ。楽になる」
遠退きそうな意識の中、私はその彼の言葉に素直に従った。未知の世界の中、私には彼だけが全てで、彼に縋ることしかできなかった。
というより、ただ本能で、血を欲していたのかもしれない。
無我夢中で彼の血を吸っていた……らしい。もう、記憶がなかったから……
気が付くと、身体の苦しみも熱さもなく、ただ、目の前には彼が倒れていて……無意識に口元を拭うと、手がべったりと緋色に染まった。
……彼の……血。
「キャーーーーッ!」
何が起こっているか、わからなかった。
「……だ、い、じょうぶって、言った、ろ」
真っ青な顔の彼が私に手を差し伸べた。私は駆け寄り、その彼の手を取った。
「健一郎さん! 健一郎さんっ! やだ! 私、何を!」
どうして彼が倒れているの? 一体何が起きているの? 私は何をしたの?
「……いいんだ。……僕が……そうさせたんだから」
私の頬を撫でる彼の力が段々と弱まる。
「独りにしないで。二人で生きていこうって……永遠に続くって……お願いだから」
「……ごめん。君を手放してあげることも、君と一緒に生きていくこともできなかった。僕は弱いから……君に、なれるなら、僕は、幸せだ」
彼は最後の力を振り絞り、目尻に皺を寄せた。
お願い、今、ここで私の大好きな笑顔を向けないで。
「……これで……彼女のところに……ありがとう」
最後にその言葉を残し、彼は消えた。跡形もなく。屍すら残してはくれなかった。
私は、ただ茫然と立ち尽くすだけだった。
*****
こうして私は吸血鬼となった。独りきりの、哀れで滑稽な吸血鬼。
私は今すぐに彼のところに行きたかった。彼以外、何も受け入れたくなかった。誰も襲わなければ飢えで死ぬことができる。でもそれは想像以上に辛かった。
何日も我慢を重ね、最後には「これで彼のところにいける」と考えながら意識を手放すのに、次に目にするのは首から壊死が始まった屍なのだ。そう、今日のように……
珍しい色のスカビオサが風に揺れている。青や紫ではなく、綺麗なスカーレット。まるで、隣に転がっている屍から流れ落ちる血を吸って生き生きと咲いているような、大きくまるっとして少しくすんだ赤色の花。
私はその花を無造作に引きちぎった。血まみれの指に赤い花。私はその花をぼんやりと見つめる。ポタリと落ちるのは屍血なのか花びらなのか。
そして、また私は一人で彷徨う。碧い髪を探しながら。
あなたはこうやって一人で生きてきたのね。ずっと一人でこうやって彷徨って耐えてきたのね。
あの最後の言葉は私を絶望の淵に落とした。彼は初めからそのつもりで私を選んだのだ。優しすぎるヴァンパイアはただ弱くてずるい人だった。
それでも、それが、私の生きる本当の意味だったのかもしれない。
スカビオサの花言葉は”I have lost all." ――私は全てを失った。
衝動的に私はその真っ赤な花びらを口にした。むしゃむしゃ貪った。全てを私の中に入れた。私の中に貴方がいる。貴方の孤独も私の孤独も、この私の中にいる。私は貴方を決して一人にしない。
でも、でもね……辛いよ。一人は辛いよ、健一郎さん。
誰か、誰か私を助けて。
End